心をどう見るか
 
                  比叡山行院院長 横 山(よこやま)  照 泰(しようたい)
昭和二六年、福井県に生まれる。昭和五一年に、中央大学法学部卒業。同年三月、比叡山の葉上照澄師に師事する。昭和五四年、叡山学院専修科卒業。現在、延暦寺一山護心院住職。平成二○年より比叡山行院院長を務める。
                  き き て   金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、「心をどう見るか」というテーマで比叡山行院(ひえいざんぎよういん)院長横山照泰さんにお話頂きます。比叡山の伝統的修行としては、回峰行(かいほうぎよう)が有名ですが、横山さんは、動的な回峰行とは対照的に、三年間下界に下りず、山に籠もって静かに天台流の坐禅や密教の修行をする籠山行(ろうざんぎよう)を終えた方です。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 

 
金光:  横山さんは、比叡山で三年間の籠山行というのをなさったそうですが、その籠山行(ろうざんぎよう)はどんなことをなさるんですか?
 
横山:  これは制度としては、戦後できた制度なんですけども、一般の天台宗の教師資格を得るためには二ヶ月間の修行というのがあるわけですけれども、さらにそれ以上に踏み込んだ修行をしたいという方が、比叡山へ三年間籠もるわけですね。今もっぱら三年間の籠山をされた方が、延暦寺の一山(いつさん)住職という資格を得るわけですけどね。私もそれを三年間―今からそうですね、二十数年前ですが、させて頂いたわけなんですけど。
 
金光:  「行(ぎよう)」という字が付いておりますから、山に籠もられるだけで、ジッと籠もりっきりということではなくて、いろいろ行があるわけでしょう。例えばどんなことをなさるんですか?
 
横山:  簡単に言えば、小僧生活ですね。小僧生活の延長というか。だから主に自分たちが本拠地とするところが浄土院(じようどいん)。先ずは伝教大師最澄上人の御廟ですね、そこで侍真職(じしんしよく)というか、伝教大師最澄上人にお仕えする方の補佐役で―これ助番(じよばん)というんですけども―お仕えしていくというのが先ず一つ。それから一般の方々対象の研修道場―居士林(こじりん)というのがあるわけなんですけども、そこでやはり助手役ですかね、研修生の補佐役でやっていく。もう一箇所あるんですけども、これが天台宗のお坊さんになるためにそこを通過しなければならないという比叡山の行院(ぎよういん)というのがあるんです。これでもやはり行に来た方々の補佐役という形で務めていくわけなんです。主には大体その三箇所を二ヶ月なりの周期で転々とするわけなんですよね。
 
金光:  有名な天台宗の行としては、峰峰を回る回峰行というのは有名で、これはテレビなんかでもご覧になっている方も多いと思うんですが、そういうものも中には入っているんですか?
 
横山:  三年ですから、一番最後の年ですが、三年目に先ずは回峰行の百日、だから三月の下旬から七月の頭、約百日間、その正規の回峰行のルートを行で回っていくわけです。
 
金光:  そうすると、千日回峰行というのは、それはそれで独立した行ですけれども、百日間の行を一年間、三ヶ月でお回りになった。それはもうその三年の間になさるわけですね。
 
横山:  そうです。
 
金光:  それと同時に、私なんか天台の昔からの伝統的な行としては、止観行(しかんぎよう)というのがあって、これは元の言葉でいうと、奢摩他(サマタ)とか毘鉢舎那(ビバシヤナ)というか、心を静めるのと、それから心の動きを観察する行だというふうに聞いているんですが、この止観行というのをなさるわけですか?
 
横山:  止観行としては、天台大師の説かれた四種三昧(ししゆざんまい)。この中の常坐三昧(じようざざんまい)・常行三昧(じようぎようざんまい)・半行半坐三昧(はんぎようはんざざんまい)、この三種類をいずれか選択して行っていくという。
 
金光:  「四種」というのは、四つの種類の三昧ということで、「常坐(じようざ)」というのは坐禅と同じで常に坐ると。「常行(じようぎよう)」というのは常に歩く。これはお念仏なんかを唱えるんですか?
 
横山:  阿弥陀さんを本尊さんとして、阿弥陀さんの周りを廻っていくわけですね。これは阿弥陀さんの名号(みようごう)「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」を唱えながら、九十日間お堂の中でそういうふうな行を行っていくわけです。
 
金光:  常に歩くというのは、どのくらい歩くんですか? 休むことは?
 
横山:  もうほとんど休息を取るぐらいで、横になって休むことはあり得ないです。
 
金光:  そうすると、これ楽じゃないですね。
 
横山:  楽じゃないです。だから勿論沐浴とか、用足し、それから自分が食事を摂る時は坐って食事したり、縄をはった椅子にもたれるようにして仮眠をしてやっていきますけども、それ以外はほとんどもう常に歩くと。念仏を唱えて仏さんを拝んで行くというスタイルになるわけですよね。
 
金光:  それもある期間やると、半行半坐というのは、半分行じて、半分は坐るという。
 
横山:  これは大体ベースというか、形としては、法華三昧というか、行法(ぎようぼう)があるわけなんですね。その行法に基づいて一期二十一坐というか、二十一日を繰り返していくというスタイルなんですね。だから法華三昧というのは、読経もあれば、足を組んで瞑想に耽るということもあれば、礼拝も入ってきますし、だから常坐、常行とは若干違って、
 
金光:  半分ずつということではなくて、
 
横山:  じゃないんです。法華行法があるわけです。
 
金光:  それから四つの種類の中に、私なんか聞きかじりですけども、非行非坐(ひぎようひざ)というのがあるみたいですが、これは行もなし、坐もなしというようなことらしいですけども。
 
横山:  これがほんとやはり段階というか、上手に組み立てられていると思うんですよ。非行非坐というのが一番最後にきているということは、常坐、常行、半行、半坐、すべて会得して、最終到達点という段階だと思うんですね。ということは、人間が生きているすべてがこれは行であるという捉え方の元で生み出されたことだと思いますし、その境地に達するまでというのは、なかなかそう簡単にいかないことだと思いますね。
 
金光:  坐禅の場合でも、「語黙動静(ごもくどうじよう)」すべて禅だというか、最後黙っているようなのも、動くのも静かに坐っているのも全部禅だというのがあるようですけれども、非行非坐もその辺のところは?
 
横山:  同じだと思いますね。
 
金光:  そういう行をなさった方は、行をなさらないと気付かないようなところにもいろいろお気付きのことがあるんじゃなかろうかと思うんですが、今日のお話としては、「心というものをどう考えたらいいだろうか」ということですね。仏教の方で、殊に天台というのは、いろんな仏教が全部中に取り込まれているというふうに聞いているんですが、そういう中で、私たち日常いろんな煩悩を繰り返している人間にとって、心というのをどういうふうに見たらいいのか。その辺のところを聞かせて頂ければと思うんですが、やっぱりそういう行をなさると、しかも現在も比叡山の行院の院長さんをなさっていらっしゃる横山さんの場合は、人間の心というのを、あるいはご自分の心というのをどういうふうにご覧になっていらっしゃるでしょうか?
 
横山:  一番難しいとこですね。経典の中にもたくさん心のありようとか心の捉え方ということが説かれていますし、解説書の中にも勿論説かれているわけなんですけど、なかなかそれはちょっとやそっとでは簡単に理解できるものではありませんね。
 
金光:  ということは、「心とはこういうもんですよ」と、これはみなさん「自分の心を考えてみれば、自分の心はしょっちゅう変わっていますし、「私の心はこれです」なんて言った途端にもう動いていますから。
 
横山:  そうなんです。この道に入って、私も三十年ほどになるんですがね、漸く最近、「心というのは、一刹那(いつせつな)だ」と。その「一刹那」ということは、勿論仏教語なんですけどね。もう瞬(まばた)きするそれよりも速い瞬間にもう心というのは入れ替わってしまうということを「一刹那」と、仏教では表現しているんですけど、「まさにそうやな」ということを漸く最近わかるようになってきたというんですかね、心のありようとか、心の捉え方とか、心の運びようということを、実践を踏まえながらちょっと見えてきたというのが現状ですかね。
 
金光:  しょっちゅう捉えどころのないほど移り変わる心というのを、思索して、心はこうだと固めてしまうことは、現実の生きた生活をしている人間の心というのは、そういう形ではちょっと掴まえることができないような気がしますね。
 
横山:  そうですね。
 
金光:  と言いながら、日常の中ではいろいろ迷いが、「こちらにしようか、こちらにしようか」というようないろいろ迷いも生まれてくるわけですが、そういう迷った時の「こちらへいく」という選びの基準みたいなものは、仏法の中には、昔からこういう方向へ行けというのは説かれているんでしょうか?
 
横山:  心の捉え方、心の運び、持っていきようというのは説かれています。そこを我々がただ見落としていただけであって、しっかりした心の運び、捉え方というのは、こういう状態の時には、こういうふうな心持ちでいなければならないと。ものに執着するということは、そこから離れなければ心の解放というのはあり得ないんですよね。でも我々は悲しいかな欲がある。ついついそっちへ目がいってしまう。そうなると本来の心のありようというのは、もうなんか宙に浮いてしまうというか。
 
金光:  今、周り障子がありますけども、よく譬えとして、部屋の中に紛れ込んだ蠅が、外へ出ようとして、その障子に盛んにぶつかっていると。ところがちょっと障子をはずれると外へ出る道があるのに、それに気が付かないで、障子に一生懸命ぶつかっていると。なんか自分が「これがしたいな、これが欲しいな」と思うと、蠅が障子にぶつかっているようなところと似たようなところがあるのかなと。
 
横山:  同じですね。人間が生きていくというのは、いろんな柵(しがらみ)とか、いろんな我執で縛られているわけですよね。だから本来の人間のありようというのは、そんなもんじゃないと思うんですよね。まさに仏道修行というのは、そういうものから離れなさいと。だから自ずと環境から、自分自身の身の周りのことから、すべてにおいて遠ざけていくということから入っていきますよね。日常生活の中では、なかなか家長であれば、家族のことを心配し、日々の生活のことも心配していかなければならん。でも行に入ったら、それこそ自分の身さえしっかりとどめておいてやっておれば、自然と食い扶持から、生活面のそういう保証というのもおかしいですけど、心配することないわけですよね。こんな有り難いことないんですよね。そういうことすら、我々は日々の生活にかまけていると、自分自身を見失っているわけですよね。だからなかなか坊さんみたいな生活せと言っても、一般の方は難しいと思いますけども、一日のうちたとい十分でも、あるいは一週間のうち一日でも、そういう雑踏なり、そういう生活から一遍離れてみるということは、自分を取り戻す一番絶好な機会だと思いますけどね。
 
金光:  人間が意識で掴めるということは、何か思うということは既に思っていることを掴めて、そこに焦点が合っているから気が付くということもあると思うんですけども、その焦点を一度外したとこで、坐るなら坐る、お念仏ならお念仏を唱える。そこに身を置くと、一応フリーハンドに外との繋がり、自分が今置かれている状態に気が付きやすくなるという、そういうことも言えるでしょう。
 
横山:  そうですね。まさにその通りだと思います。なかなか心というのは、最初の話になりますけども、瞬時にして変わってしまうわけですから、ある面では心というのは、自分が生きている証なんですよね。生きているから心が発動して、心がまたよからぬ考えを持ったり、ということになるわけですから。だからある程度の条件づけというのは、自分の意思でできるわけですから、そのように自分自身が自分の意思でもって仕向けていかなければならんと思いますね。
 
金光:  そこには一種の訓練というかトレーニングというか、
 
横山:  当然必要になってきます。仏教の根本的な考え方としては、これがすべて心にまで影響を及ぼしているわけですよね。と言いますのは、自分の意思で、さも生きているような錯覚に陥っておりますけども、決してそうじゃないんですよね。見えない力もあり、いろんな条件によって、「我々は生かされている」ということを認識しないことには、心どうもっていこう、考えたところで、これはなかなか元の鞘には収まりきらないと思うんですけどね。
 
金光:  今の我が身で考えてみますと、確かに自分が、私なら私のお腹が空いた時に、隣の人が食べてくれても、私のお腹が膨(ふく)れないと。これは確かに自分と他人が別々だというのは事実でありますけれども、もう一つ考えてみると、自分自身の身体が、お腹が空くのも自分が空かしたわけではなくて、食べ物が入って消化されて、暫く経つとお腹が空くようにできているのも、これも自分が作ったわけではなくて、そういう身体を与えられているわけですから、そうすると自分がお腹が空いたということは、他の人も同じような状況になるではなかろうかと。同じような状況になってくると、ある一つの食べ物があるとすると、それを自分一人で食べたいという気持ちがあっても、やっぱりこちらの人も食べたいと思っているだろうというと、仲良く暮らすためには、お互いにわけて食べましょうとか、自ずから自分の身体も与えられているもの、相手の身体も与えられているものというところで、もう一度見直すと、それがエゴの塊の考え方ではなくて、エゴを超えた世界となっていくと。
 
横山:  そうなんですね。今の現実というのは、他の痛みとか、他と同化する。他の人の苦しみに思いをよせるとかということすらなくなってしまっているんですよね。だからそうじゃない境地というのは、「自他不二(じたふに)」というか、自分も他も一緒だよと。母親が腹を空かした子どもを思ったら、やはり自分は多少なり食べなくても、子のためにとかいう気持ちなんですよね。それ誰しもがやはり持てるわけなんですよね。だから少しでもそういうふうな気持ちに立ち帰るということをしないと、なかなかこれからの時代というのは物質面ばっかりが先行してしまって、難しい人間関係になるんじゃないかと思いますけどね。
 
金光:  ちょっと話が変わるかも知れませんけども、聞くところによると、横山さんは、江戸時代の慈雲(じうん)尊者(1718-1804)のことについてもご研究されているということを聞いたわけですが、慈雲尊者という方は、人間の心についてはどんなふうにおっしゃっているんでしょうか?
 
横山:  そんなに自分も慈雲さんのことを勉強しているわけではないんですけども、すべての原因の元というのは、自分自身の「一念心(いちねんしん)」というんですかね、一念心というのをやはり高めていかなければならんというんですかね。
 
金光:  澤木興道(さわきこうどう)老師のお弟子さんの村上光照(むらかみこうしよう)さんが、慈雲さんがお好きで、慈雲さんの言葉を集めていらっしゃるものを教えて頂いた時に、私、非常に印象深かったのは、慈雲尊者の言葉で、
 
眼眼(まなこまなこ)を見ず
眼眼(まなこまなこ)を見ざることを
識得(しきとく)すれば
世間(せけん)出世間(しゆつせけん)に自在なり
 
という言葉がありまして、何のことかよくわからなかったんですが、目は自分の目を見ることはできないと。しかしそのことがよく納得できたら、どこへ行っても不自由しないよ、ということをおっしゃっているんで、どういうことかなと思っていましたら、ある時自分の本来の性質と言いますか、「自性清浄心(じしようしようじようしん)」という言葉が、清浄な心を持っているんだと。これは汚れていない。他者からの影響を受けて、彼奴は嫌な奴だと思うようなところでない次元に、本来の心というのは、汚れがない世界だと。そこから見ると判断できる。というのは、目が自分の目を見ることができないのと同じように、自分の本来の心というのは、腹が立つとか、あるいはこれが欲しいとか、こんなことをするのは嫌だというような、そういう気持ちを離れたとこにあるんだと。そこからもう一度見直したら、そうするとどこへいってもそこの場に一番適当なことができるんだよ、ということをおっしゃっているんではないかなみたいなことを、そうかなと思ったらなんとなく落ち着いてきたんですけどね。「自性清浄心」という、これはやっぱり仏教で昔から言っている「空」とか、なんかという言葉にも通ずるところがあるんでしょうか?
 
横山:  言い換えると、いろんな表現の仕方みたいですね。「仏性(ぶつしよう)」なんかもそうでしょうし、慈雲さんの言葉の中に、
 
仏と云ふは、我が心の清浄なる名なり(『短編法語』)
 
と、ちゃんと出てくるんですね。だから私も「自性清浄なる心」というか、ここに今おっしゃられたその通りだと思いますね。だから私も自信をもって最近はよく使わせてもらう言葉ですんで。
 
金光:  結局天台の場合、四種三昧とか、いろんな行法が伝統的に伝わってきているようですけども、やっぱり元を辿ればお釈迦様の説かれた教え、「法によりなさい。自らによりなさい」という、それの実践の形がそれぞれの環境なり時代によって表現が変わってきているでしょうけれども、しかしやっぱり突き詰めていうと、「一切空」というのは、何もないということが、いわば「清浄である」という、その辺のところに通ずる世界のことをおっしゃっているような気もするんですが、
 
横山:  そうですね。慈雲さんのことを、さらにちょっと言わせて頂きますと、それに続いて、
 
法性(ほつしよう)と云へばまぎれる、自己の一念心のことじゃ(『法語集』)
 
「まぎれる」とは、つかみどころのない自分の心を指していると言われています。「一念心」とは瞬時の心の働きのことで、一瞬一瞬つねに揺れ動いて一定しない私たちの心をさしているのです。
 
金光:  仏の性質と書いて「法性」と読みますね。
 
横山:  この「法性」というのは、物事の普遍なる自性というんですかね。
 
金光:  本来具えている性質というか、
 
横山:  本来具えている働きというか。「法性」とか、「本性」というのは盛んに出てくるわけなんですけども、この「本性」というのが、まさに「自性清浄の心」なんですね。「本心」というか。だから素晴らしい景色を見れば、また素晴らしいものを見れば、わぁっと感動する、感銘するというのは、誰しももっているわけなんですよね。しかしなんかちょっと衒(てら)いがあって恥ずかしいとか、どうのこうのと言うんで、なんか隠してしまうとかね。だから素直に素晴らしい時には素晴らしいって、やればいいんですけども、それすらできないというのは、ちょっと屈折しているなと思うんですよ。
 
金光:  お釈迦さんが、最晩年に亡くなられるすぐ前に、「自分を頼りにしなさい。法を頼りにしなさい」というのも、今のところに通じているんじゃないかと思うんですね。自分と法が別々では困るんで、「自性清浄心」も、それから「自灯明(じとうみよう)・法灯明(ほうとうみよう)」あるいは「自帰依(じきえ)・法帰依(ほうきえ)」と訳されたりしていますけれども、法と自分とが一体の世界。そうするとそこは、とらわれたり、自分の衒(てら)いの心、そういうものを離れた、いわば何にも掴み所のない綺麗な清浄な心だよと。それが法と自分が一緒になっているそこの世界。そういうことを言おうとなさったのかなと、この頃思うようになったんですけども。
 
横山:  だからこれは決して、慈雲さんだけではない。各祖師方がみんなぶつかって自分なりの表現の仕方で表されていますよね。本来人間というのは、おぎゃっと生まれて、垢にも何にも世間にも染まっていない無垢清浄ですよね、まさに。どんどん年と共に世間に、あるいは垢に塗(まみ)れてしまっていると。余計なものがくっつき過ぎてしまっているんですよね。だからああでもないこうでもない、余計なことで悩んでしまうけれども、それを剃り落としていかなければならん。子どもの無垢な状態に戻っていかなければならんことが「自性清浄」にも繋がっていくでしょうし。
 
金光:  横山さんがお書きになった本の中に、仏教の特色として、四つの法印(ほういん)というか、これは有名な言葉ですね、
 
諸行無常(しよぎようむじよう)(〈諸行〉はこの世の一切の現象と存在を、〈無常〉は常に変化して同じ状態に止(とど)まらないことを意味する)
諸法無我(しよほうむが)(〈諸法〉はこの世の一切の有形および無形の物事を、〈無我〉は「我(主体、=自身)」という囚われから離れることを意味する)
涅槃寂静(ねはんじやくじよう)(〈涅槃〉はすべての煩悩がなくなって悟りの智慧を得た境地(=解脱)を、〈寂静〉は安らぎの境地を意味する)
一切皆空(いつさいかいく)(〈一切〉は物事のすべてを、〈皆苦〉はどんなものも苦しいことを意味する)
 
というのがありますね。それで、「諸行」すべてのものは無常である、移り変わる。一刹那の心に通ずるわけですけれども、それらは全部無我であると。塊はないんだと。それが涅槃寂静というんですが、「涅槃」というと難しいようですけれども、大学者であった中村元(なかむらはじめ)先生が、「涅槃は安らぎだろうという、それが適当ではないか」。「安らぎ」だと非常に静かで、しかもそれが一切は、すべてが空であると。変な色は付いていないんだと。綺麗なものだと。それが仏教の一番肝腎なことだとおっしゃっている。その言葉を引用なさっているのを聞いて、今日もいろんなお話がでましたけれども、やっぱり「皆空」というと難しいけれども「清らかな心」というふうなそういうふうな自分に日常生活の中でも気がついていけばいいかなというふうにお伺いさせて頂きました。有り難うございました。
 
     これは、平成二十七年七月五日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである