親鸞聖人からの手紙 C無明の酒に酔う人間―第二通
 
               武蔵野大学名誉教授 山 崎(やまざき)  龍 明(りゆうみよう)
 
ナレーター:  「親鸞聖人からの手紙」その第四回「無明(むみよう)の酒に酔う人間」、お話は武蔵野大学名誉教授の山崎龍明さんです。
 
山崎:  「親鸞聖人からの手紙」第四回目でございます。本日は「無明の酒に酔う人間」と題しまして、お手紙第二通を読んでまいります。表題には「うれしく候」と書きました。この親鸞聖人の手紙四十三通の中でも、この第二通はもっとも長文のものです。これは当時の親鸞聖人と関東の念仏者たちの交流を知るうえでは、とても大切なものと言えます。ここでは聖人の「無明の酒に酔いて」という言葉を中心に考えてみたいのですが、その前に手紙の冒頭にあります「かたがたよりの御こころざし」、つまり(みなさま方よりいただいた志の銭―布施と言いましょうか)―という言葉から考えてみたいと思います。この第二通は、明教房(みようきようぼう)というお弟子が上京して、関東の念仏者たちの「こころざしの銭」(お布施)を親鸞聖人に届けたことへのお礼、これが最初に。次には、明法房(みようほうぼう)、そして平塚の入道(にゆうどう)という人たちが往生したことを聞いた聖人の喜び。三番目には、京都でも地方でも浄土の教えに対する異義―異端が横行していることへの聖人の悲しみと嘆き。これらが記されている大変興味深い手紙です。ちょっと手紙の最初を読んでみますと、
 
かたがたの御こころざいのものども、数のままにたしかにたまはり候ふ
 
こういう原文でありますが、現代語訳で申します。
 
各地からのお志を、記された数の通り確かにいただきました。明教房が京都に来られているのはうれしいことです。みなさんのお志には、お礼の申しあげようもありません。明法房が浄土に往生なさったということは、驚くようなことではありませんが、本当にうれしく思っております。鹿島(かしま)や行方(なめかた)や奥郡(おうぐん)などの、往生を願っておられるすべての人々にとってよろこばしいことです。
 
こういうお手紙であります。親鸞聖人の生計が、各地の念仏者からの志の銭によって成り立っていたということは、他の手紙にも見られます。この手紙は、今申しました鹿島(常陸の南東部)、行方(なめかた)(鹿島の西部)、奥郡(おうぐん)(常陸の北部)、こう言った常陸(ひたち)の念仏者のために書かれた手紙です。また大事なことは、この明法房や、あとで出てまいります平塚の入道の往生(おうじよう)―つまり救いですね―についての親鸞聖人の感想が示されています。手紙にある明教房というのは、親鸞聖人の『親鸞聖人門侶交名牒』(門弟の連名簿)によりますと、常陸の乗信(じようしん)の弟子であることが知られています。その明教房から明法房という方の救い―往生のことを聞いた親鸞聖人が、「かえすがえすうれしく候ふ」と示しています。人間にとって「死」は悲しみそのものですが、聖人は念仏者の最期を「往生」と言われます。「死」は悲しみでありますが、「往生はうれしく候ふ」と親鸞聖人は言われるのです。何故なら、人間の最期である死は、肉体そのものの終わりですが、「往生のいうのは、悟りの世界に生まれるということなり」と、親鸞聖人が注釈されますように、迷いの世界を超えて、悟りの世界に入ることだから、それは嬉しいことである。従って「うれしく候ふ」とか、「めでたきことにて候ふ」こう示されるのでした。迷いの境界というのは、仏教では承知の通り六道(ろくどう)(「りくどう」とも読む)を指しますが、その六道とは、「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上」のこの六つの世界を迷いの世界と申します。しかし仏教では、この他四つの世界を入れて、十界(じつかい)を説きます。ちょっと回り道ですが、簡単に記しておきましょう。
 
「地獄」という世界は、究極の苦しみにせめられる世界
「餓鬼」という世界は、苦しみのため食べ物が食べられない飢餓状況
「畜生」という世界は、人間に残害され、殺傷しあう世界
「修羅」という世界は、絶えず争い極まりない世界
「人間」という世界は、動物や神と異なる人そのものの世界
「天上」という世界は、状況に埋没して自己を失う世界。「有頂天」という言葉がありますよね。あれは自己を失っている世界であります
「声聞」という世界は、宇宙の森羅万象を聞くことによって法を学ぶものが得る位
「縁覚」という世界は、さまざまな縁によって得る悟りの位。人間生きていく中で、さまざまな縁(えにし)によってそれを感じ取る世界。こう言ってもよろしいでしょうか。
「菩薩」という世界は、悟りを終えて世のため人のために尽くす者。これが取り分け大事なんですが、宮沢賢治じゃありませんが、「世界が全体幸せにならない限り、私の幸せはあり得ない」と言われたのは、この菩薩として生きたいという賢治の思いであったのかも知れません。
「仏界」という世界は、真理に目覚め―仏というのは覚者―目覚めたる者、インドで「ブッダ」という言葉は、目覚めたる者、という言葉であります。真理に目覚め、他を真理に導く者
 
この十の世界を「十界」と申しまして、要するにこの六つの迷いの世界を超えて仏の世界に至ることを、聖人は「往生」とこう申しまして、ですから往生、つまり悟りの世界に生まれること、つまり仏の悟りを開くことが、つまりそれは「めでたきこときわまりなき世界」また「嬉しいことである」という表現を手紙で記されたわけであります。特に申し上げたいのは、ここの明法房という弟子が、聖人にとっては非常に感銘的な出会いであったことがあるわけです。明法房と言いますのは、もともと弁円(べんねん)と名のっておりまして、山伏だったんですね。茨城県の笠間(かさま)辺りに念仏の教えが流行、繁盛するのを非常に妬んで、親鸞聖人を殺害しようとしたんですね。このエピソードはいろいろあるんですが、しかし逆に親鸞聖人と出会い、親鸞聖人の教えを受けて弟子になられた人なんですね。こういう経緯ですから、この明法房が往生されたということを殊更喜ばれた、ということも頷けるところであります。いずれにしましても、関東の念仏教団、念仏集団というものは大変混乱をしていたことが明らかになっています。例えばお手紙には、「聖教(しようぎよう)」仏教の本ですね、
 
聖教(しようぎよう)を見ることもなくその教えの内容を知らないみなさんのような人々が、往生のさまたげとなるものは何もないということだけを聞いて、誤って理解することが多くありました。今もきっとそうであろうと思います。浄土の教えを知らない信見房(しんけんぼう)などがいうことによって、ますます誤解を深めておられるように聞きますが、それは実に嘆かわしいことです。
 
こういうお手紙がありまして、信見房というのは、どういう方かよく知らないということを親鸞聖人がおっしゃっているんでありますが、その方の言われたことによって大変関東の信仰者たちがぐらついてしまったということなんですね。これはどういうことかと言いますと、阿弥陀仏の根本の意志というのは、善人よりもまず悪なる者を救いたい。善き人よりも罪深き人をまず救うというのが、阿弥陀仏の根本意志でありましたから―これを「本願(ほんがん)」と言いますけどね―そういう教えに立脚して、どんな悪いことを犯しても救いにさまたげはないんだ。つまり心のままに―本能の赴くままにと言っていいでしょうかね―悪を造る人々に対する戒めが、この言葉の中にあります。これは「造悪無碍(ぞうあくむげ)」と言いまして、どんな悪を造っても救いに障碍、さまたげはないとして、このような教えを説く方が関東にはおられたようです。この誤った理解が、如何に関東の人たちの中に混乱を起こしたか、ということは、しばしば親鸞聖人の手紙に見られます。そこで今日の表題にありました「無明の酒に酔いて」ということを申し上げますが、これも「思うさまに振る舞うべし」という誤った信仰理解に対する親鸞聖人の手紙であります。ちょっと読んでみましょう。
 
もとは無明(むみよう)の酒に酔いて、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。
 
こういう原文なんですが、簡単に記しますと、阿弥陀如来の教えに出会う前は、無明―仏教では迷いということなんですが―という酒に酔っ払って、貪欲(とんよく)(貪(むさぼ)り、欲望)、瞋恚(しんに)(怒り、腹を立てること)、そして愚痴(ぐち)(愚かさ、真理に暗い)―こういう欲望、いかり、愚かさ、この三つの毒ばかりを好んでおりました。要するに言葉を換えて申しますと、人間だからそれで当たり前じゃないか、そういう状況にあった。しかしながら、阿弥陀如来の誓いである教えを聞き始めてから、そういう無明の酔いも「やうやうすこしづつさめ」と言っていますから、突然でなくて、少しずつ酔いが醒めてきた。三つの毒―欲と怒りと愚かさ、そういうものを少しずつ好まないような私になりました。そして阿弥陀如来の薬を常に好んで服用するようになりました。ここでは三つの毒である「煩悩」と「阿弥陀仏の薬」ということが中心となっております。「煩悩」とは、インドの言葉でクレーシャ(〈汚れた心〉〈苦しむ心〉というのが煩悩の原意である。総じて、われわれを悩まし害し誤謬に導く不善の心を煩悩と呼ぶ)と申しますが、中国の方は「心のよごれ」―我々の悪感情と言いましょうか―とされております。人間にはおよそ八万四千の煩悩があるとも言われます。それをズーッと集約すると、それが百八になる。除夜の鐘の百八叩くというのはここからきますけども。それをまた縮めると、先ほど申しました「欲といかりと愚かさ」という三つ。これは貪欲・瞋恚・愚痴というんですが、
 
貪欲=好ましいものに対する執着、つまり好きな人とはいつまでも一緒に居たい、あるいは好きなものはいつも食べたい
瞋恚=好ましくないものに対する執着、つまり嫌いなものへのとらわれ。嫌いだと思ったら、顔を見るのも嫌だ。言葉を聞いても嫌だ。
愚痴=真理に対する無知、いわゆる道理というものを考えないで自我剥き出しで、そして自我が誤りなきものとして立っている、その立場を愚痴。愚かさということになります。
 
この三つが、人間の根源的な悪と仏教ではこう説かれるんです。この他に三つありまして、簡単に申しますと、
 
(まん)=自慢の慢です。おごり、たかぶり
(ぎ)=疑い、つまり自己以外を一切信じない。すべて自分の物差し通りだという
(けん)=どこまでいってもこれは疑によく似ているんですが、自己の考えに執着して譲らない
 
これが「貪・瞋・癡・慢・疑・見」これが私たちの人間を構成している煩悩である。これが実は「無明の酒に酔っている」というのは、この六つの煩悩の中に生きている私たちの姿をこういう形で表現をされた。親鸞聖人は、その無明の酔いが醒めていないのに重ねて酒を勧める。みなさんどうでしょう、酔っている人に「まあまあ」とドンドン酒を勧めたらかなり危険なことになりますね。毒も消えていないのに、毒を勧めるようなことはあってはならないことです。親鸞聖人はこう言われます。
 
いくら煩悩に染まった身であるからといって、自分のこころのままに、してはならないことをし、いってはならないことをいい、思ってはならないことを思い、こころのままにすればよいといいあっているようですが、なんともこころの痛むことです。
 
という親鸞聖人のお手紙が残るわけですね。いくら薬があるからといって、好んで毒を飲みなさい。そんなことは道理としてもおかしいことですね。苦しいのは自分だけですから。ですから
 
薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ。
 
こういう言葉が残されることになったわけであります。つまり心のままに悪を振る舞う。それは救いの妨げにはならないなどということは言語道断。親鸞聖人は、「念仏にこころざしのないもののいいわけである、自己弁護である」こういうふうに言われるわけです。そして次ぎに、手紙には、「仏法を正しく頂き、正しく学んでくると、悪しきことを厭う心がむしろ生まれてくるんだ」こういうことが述べられております。阿弥陀仏の教えを聞いて、時間の経っている人々は、のちに迷いの世界に生まれることを厭い、そして自分自身の―私たち自身の悪ですね―煩悩というものが、逆に悲しまれ、厭われてくるものなんだ。「この身のあしきことをばいといすてん」私の悪いことをなんとか捨てていかねばならない。煩悩いっぱいの私だから悪いことを捨てられない。それが如来の救いだと言って、考えることは誤りであると。先ほど申したことであります。ですから「その教えに出会ったものは、この身の悪は悲しみ、いたみ、ますますアミダ如来の教えを聞いて求めることになる」と、親鸞聖人が手紙に表されるわけですね。整理致しますと、
一つは、仏法の真実に出会ってくると、「後世のあしきこと」と書いてありますから、迷うの世界に生まれること、そのことを厭う心が生まれてくる。つまりなんとか本当の自己自身の人生を生きたいという心が生まれてくる。
二つ目は、「この身のあしきこと」と言いますから、なんだかんだ言いましても、私たちは先ほど申しました「欲といかりと愚かさ」という煩悩だらけの自己であるということを避けられません。それを正当化するんじゃなくて、考えてみたら悲しくも恥ずかしいことだなと。この身の悪いことが逆に厭われてくる。これが親鸞聖人の「厭うしるし」が出てくるのが、仏法に生きるという者の世界であるということを、この手紙から私たちは了解をすることができるわけです。親鸞聖人の教えと言いますのは、その当時から―八百年前から今日まで誤解されてきました。つまりご承知のように、『歎異抄』の第三章、
 
善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。
 
善人が救われるから、悪人が救われるのは尚更のことである。こういって教えられるわけですね。悪も無限容認であると。無限に悪を認める、こんなものは倫理道徳を破壊するものだ。ザッと親鸞さんの教えはそういう誤解を受けてきたわけですね。このような批判に対するために、過度なまでに教えを道徳化するといった誤りを犯すような見解も過去にはありました。いくら阿弥陀如来の力強い救いの働きがあると言いましても、それに甘えてはいけない。少しでも悪を慎むべきである。こういう立場ですね。このような理解を一つは、
 
一、造悪無碍(ぞうあくむげ)(どんな悪をおかしても救いには関係ないからいいんだという異義、誤った理解)
二、専修賢善(せんじゆけんぜん)(もっぱら賢いこととか、善きことを修める)
 
だから逆にそういう教えの誤解に対して救いのために、私たちも立派な行いに励む。そうでないと救われないというグループも関東に現れてまいりました。これも誤った信仰理解であると、こういうふうに言ってもよろしいと思うんです。「救い」というのは、親鸞聖人は、人間の私たちの心の善し悪しによって決まるのではないんだと、こういうことなんですね。それはヒョッとしたら、救いというものを私物化していることになってしまう。救われるか救われないかということを、私たちの心の善悪、つまりあの人は善人だから救われる、この人は悪人だからダメ。そうではなくて、救いというのは、阿弥陀仏の真理を悟った阿弥陀仏の働き、つまりはからいによって決まることでありますから、ですからこれは他力の教えということがいわれるわけです。阿弥陀仏の教えの働きによって、私たちが真実の世界を頂くんだと。人間の善悪の心ではない。このような教えを聞いて、阿弥陀如来を深く信じようとする心が生まれるならば、心底悪行を犯したこの身を厭い、つまりすまなことだったな、大変な誤りを犯していたな。また迷いの世界を流転することを悲しんで―先ほどお聞き頂きましたね―六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)迷いの世界をグルグル流転、経巡ることを悲しんで、阿弥陀如来の教えに帰依することになります。その次ぎにお手紙では、現代文で申しますと、
 
また、浄土往生を疑うことのない信心は、釈尊と阿弥陀仏のお勤めによっておこると示されているので、煩悩をそなえた身であっても、真実の信心をいただいたからには、どうしてかつての心のままでいられるでしょうか。
 
ここには、救いの信心というものは、「釈尊と弥陀」とのお勧めによって成り立つものであると示されています。くどいようですけども、私たち自身の行いの善悪と救いというのは、まったく無関係だということが明確に示されます。この辺りが実はいろいろある仏教の教えと違いまして、親鸞聖人の独自な御教え、教えの理解であると、こういうふうに申し上げてもよろしいかと思います。親鸞聖人の人間観、自己洞察と言いましょうかね、如何なる悪も避けることができない私、というところにありました。それは親鸞聖人の罪、悪が深く重い「罪悪深重(ざいあくじんじゆう)の私」とか「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の私」と、こういう言葉でした。これも私は、悲観的な人生観といったものでなくて、人間といったものの極めて現実的な認識だと考えております。先ほど申しました「善人なほもって往生をとぐ」これも大変大事な言葉でありますけれども、少し時間の関係で省略をさせて頂きますが、このような「善なる者が救われるから、悪なる者が救われるのは当たり前である」という言葉の深みをきちっと学ばないと、それは大変な誤解を生ずることになるということは、言うまでもないことであります。さて最後になりますが、「衆生利益のために還る」ちょっと難しいんですが、親鸞聖人の教えというのは、私が仏道を学んで悟りを得る。それだけでなくて、その私が悟りを開いた暁には、必ず苦しみ、悲しみ、悩む人々のために働く。それを仏教の言葉で難しいですが、「往相(おうそう)」と「還相(げんそう)」と言うんですね。「往相(おうそう)」は、私が仏道を歩んで行く姿。「還相(げんそう)」は、悟りを得た私は、またこの土に還って来て、苦しみ、悲しみ、悩む人になんとか手を差し伸べて救いを実現していく。「悟り」というのは、そういう仕組みと言いましょうか、構造をもっているんだというのが、親鸞聖人の教えのとっても大事な、しかしこれは実に分かり難いものであると、こう申し上げてもいいかも知れません。くどいようですが、聖人は、私たちが阿弥陀如来の教えに導かれ、養育されて念仏とともにこの人生を全うする姿を「往相」といいました。そして、この命が尽きた時、真実の悟りを得た時に、またこの土に還って人々を救う働きを「還相」と示されました。ですから簡単にいうと、
 
往相=私が念仏者として生きていくこと=自利
還相=この土に還ってきて人々を救うはたらき=利他
 
仏教でいうと「自利」自らの悟り。そして「還相」は「利他」他を幸せにする。他を悟らせる。これがまったく「自利即利他」と言いまして、一つになっているんだ、こういうことを大変強調したのが、親鸞聖人の仏法であった、ということが言われると思うんです。つまり私が救わればそれでいいんじゃなくて、私が救われるということは、あなたが救われることでなくてはならない。こういう世界が「自利と利他」。これが「大乗菩薩道」という仏道であると、こう言われるわけであります。今、私たちの周囲では、「よく今だけ、お金だけ、自分だけ」という言葉を聞きます。しかしそれは何も現代に限ったことではないと思うんです。人間―私たちの本質をついた言葉のように私には思われます。しかしこのような価値観の行く末というのは、言うまでもなく闇です。闇の世の中だからこそ、こういう言葉が出てくるのかも知れません。阿弥陀如来より恵まれる信心の世界というのは、自分だけという閉ざされた世界から、私を解放し、開かれた自己として、この生を―生きる道を示してくれるものです。これが私が親鸞聖人の手紙を読む中から学ばせて頂いたことであります。
 
     これは、平成二十七年七月十二日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである