悲しみを生き、超える道
 
             白百合女子大学教授
             「生と死を考える会」理事長 田 畑(たばた)  邦 治(くにはる)
一九四七年、北海道函館市生まれ。上智大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了。上智大学中世思想研究所職員、聖母女子短期大学助教授、同大学教授を経て、白百合女子大学教授。NPO法人「生と死を考える会」理事長。
              き き て         金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、「悲しみを生き、悲しみを超える道」をめぐって、白百合(しらゆり)女子大学教授で「生と死を考える会」理事長の田畑邦治さんにお話を頂きます。田畑さんは、昭和二十二年(一九四七年)のお生まれ。大学では哲学や宗教学、キリスト教的人間学などを教えておられますが、「生と死を考える会」の理事長もお務めで、人生最大の悲しみ―肉親との死別に出遇った人たち中心の集まりを、毎月五回も開催していらっしゃる方です。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 

 
金光:  今日は、悲しみを生きて、それからその悲しみを超える道についてのお話をお伺いしたいと思うんですが、先生は大学の先生をなさっていらっしゃると同時に、「生と死を考える会」の理事長さんをなさっていらっしゃって、そういう現実に死別―亡くなった方の喪失体験などで困って悲しんでいらっしゃる方なんかの例もご存知ではないかと思うんですが、その悲しみに出遇った時の生き方というのを、どういうふうに考えればよろしいのか、その辺からお話をして頂けませんでしょうか。
 
田畑:  ちょうど私、十年前になるんですけれども、『悲しみを支える言葉』という本を書かせて頂いたんですけど、その「悲しみを支える言葉」というテーマは、その「生と死を考える会」で、大事な人を亡くした方たちのための教養講座というか、勉強会で、主として日本の古典ですね―『古事記』から江戸時代の松尾芭蕉までを扱いながら話したことを纏めたものなんですね。その時に「悲しみを支える」というタイトルにしたのは、日本の古典を見ますと、たくさんの悲しみがあったわけですけれども、かなり多くの場合は、死別体験を前提に書かれているものがもの凄く多いということがわかりました。そして、そのお話を聞いてくださっている人たちは、非常にリアルな、そして厳しい現実を体験しているんですけれど、ある意味悲しみにぶっつかると言葉を失うようなことで、どういうように表現していいかわからなくて苦しんでいる方が凄く多いわけですけれども、その点で日本の古典とか、あるいはいろんな物語とか、神話とか、和歌とか、俳句とか、そういうふうな先人の書かれたものを通して、ちょっと回り道と言ったらいいんでしょうか、迂回路のようになっていて、そういうことを通すことで、逆に自分たちの経験した悲しみを自分の中で少し整理していける、ということを、何度も経験したんですね。ですから悲しみをすぐに超えられるとは限りませんけれども、悲しみの一つの形を与えるとか、悲しみを整理するという面で、先人たちの遺した言葉が、とても大きな意味を意味を持つんじゃないかということを、私はその時体験しまして、それを本に纏めたわけです。ですから、その時あまり「悲しみを超える」ということはあまりよく考えていなかったんですね。まあともかく先ず悲しみに寄り添って悲しみを支えるということ。それを通してご本人たちが少しずつ悲しみを克服していくというか、あるいは日常生活に戻っていけるということ、それは一人ひとりの課題ですので、私の方から「こうしなさい、ああしなさい」ということができなかったし、する必要もなかったかなと思っています。
 
金光:  現代の人たちは、お話をなさっていて、古典に対する伝わり方・理解のされ方というのは如何でしょうか?
 
田畑:  そうですね。それはなかなか難しいですね。私、ミッションスクールで働いていますから、聖書などよく使いますけれど、やはり若い人たちは、そういう古典をすぐに読むというそういう習慣がほとんどないので、もう例えば「聖書を読みましょう」と言っただけで抵抗感がある、退いてしまうところがありますね。それは日本の古典でも同じなんですね。ですから教える方のあり方として、ほんとにそれ注意深くですね、つまり「古典を読みなさい」とか、そういうことではなくて、自分がほんとに時間をかけて、魂を込めて、自分が先ず古典と向かい合って、そしてそこから受けた感動を分かち合うという形でしか伝わりにくいんじゃないか。私、先ほど紹介した『悲しみを支える言葉』の一番最初には、『古事記』を紹介して、その『古事記』の中には、「イザナギノミコト(伊弉諾命、伊邪那岐命、伊耶那岐命)が、日本神話に登場する男神)が奥様のイザナミノミコト(伊弉冉命、伊邪那美命、伊耶那美命、伊弉弥命)は、日本神話の女神)に亡くなられて、悲しみに見まわれて、そして涙を流した」という話が、一番早い段階に出てきまして、ある意味日本の文学の死別体験の一番最初の話はこれなんですね。そこで非常に感動的なのは、イザナギノミコトから涙が出た時に、その涙からまた神様が、新しい神様がお生まれになったと。つまり日本の文学の一番古いところに、人間の死別体験の悲しみが背景にあって、そしてその悲しみの涙がどれほど尊いかということを、古代人はわかっていたから、そういう神話が生まれたんじゃないか、ということを考えますと、意外にこの物語を、例えば若い人たちに紹介しますと、あぁなんとこんな人間の涙について、こんなに素晴らしい著述が『古事記』にあるということを、学生たちは知って非常に喜んでくれることもあるんですね。
 
金光:  そういう形で古典をいろいろ紹介なさっていらっしゃると、それを聞いていらっしゃる方、自分の身内の方が亡くなられた方なんかの理解の仕方、そういうものの受容の仕方というのは、やっぱり会の初めに来られた時とは変化してくるもんですか?
 
田畑:  そうですね。人によりますけれども、私たちの「生と死を考える会」の主な活動は、当事者同士ですね、大事な人を亡くした人たち同士の分かち合いがあるわけですね。そこでは特別古典を使うわけではなくて、古典を使うのはまた別のグループで死生観の勉強ということですけど、ですから死別体験のすぐ直後の人は、そういう古典とか、なかなか読む精神的なゆとりはないんですけど、ちょっと時間が経ってから、そういうグループに入って、古典に触れることによって、自分の今まで表すことのできなかった心の襞を、古典を通して少しずつ自分のことのようにして読み直すことができるわけですね。例えば先ほどの『源氏物語』なんかもそうですけれど、『源氏物語』の中にたくさん死別体験があるわけですけど、それがまさか自分の死別体験と重なるとは思っていなかったんですけど、よくよく読むと、『源氏物語』なんかは始めからズッと死別体験の物語と言っていいぐらいたくさんの人の死別があるわけですね。光源氏(ひかるげんじ)は、それを経験しながら人間的にも成長していくわけなんですね。そういうことと重なって、自分たちにとって縁遠いと思っていた古典が、意外に近いところにあるということをだんだんわかってきて、そしてだんだん自分の悲しみを深めていくというか、深めることを通して、また成熟していくというんでしょうか、そういうふうな人たちが何人もいらっしゃいましたね。
 
金光:  大きな死別というような問題に直面しますと、人間の場合は、そのことに集中してというか、他のことが考えられないほどその悲しみに浸らざるを得ないような、そういう性質を持っているんじゃないかと思うんですが、それがそういう古典の例なんかを挙げていらっしゃると、それが自分の問題として受け止めてこられれば、そういう死別というものの姿を正しく見るという。現実はどうかというのが、最初はその悲しみに覆われて何にも他のものが見えなかったのが、そういう古典の話を聞いていらっしゃって、あぁ昔からこういうケースがあったのかなというふうに、だんだん距離を置いて見ることができると、本当の死というものに対する見方も、正しい見方というか、正確な見方ができるようになるものかなと思って伺ったんですが、そういう変化はございましょうか?
 
田畑:  そうですね。それが非常に大事だと思いますね。先ほどの二つの死別の体験者の集まりもそうですし、そういう教養講座のようなものもそうですけど、共通しているのは、自分だけの悲しみじゃなくて、他の人が同じような悲しみを体験している。あるいは昔ずっと何百年も、二千年も前の人たちも私と同じような経験をしている。仏教の言葉に、「同悲(どうひ)」同じ悲しみという言葉が仏教にあるかと思いますが、「同悲」という同じ悲しみを体験するというか、共感するということが、人間の一番深い人間性じゃないかと思うんですね。そこからそれで勿論自分の悲しみがなくなるわけじゃないですけれど、そのようにして自分の視野が広がっていって、そして人間理解が深まっていく。自分だけの悲しみであったのに、今度は同じ苦しみを味わっている人に対しても、慈悲の心が生まれてくるとかですね。そういうふうに悲しみというネガティブな体験のように見えるものが、実はそこから大きな力になって、他の人に対する優しさとか慈しみの力の原動力にもなるということがたびたびあると思いますね。
 
金光:  現代の教育は、個の確立ということが喧しく言われるわけですが、個の確立も大事なんですけれども、個の場合は周りを見ないで、自分のことしか考えない方向で確立しようとすると、それこそ何か問題が自分に生じた時には、それ以外のものが見えないような状況になると思うんですが、それが今のお話を伺っていると、同じ悲しみ、その自分だけではなくて、ここに他の死別体験された方も一緒に自分と同じような境遇の方がいらっしゃるというと、自分だけのいのちだけではなくて、共通のいのち、人間同士というのはこういうふうな繋がりがあるんだというのを、無意識のうちにいのちの広さと言いますか、自分で生まれて死んでしまうこの小さいないのちじゃなくて、もっと大きないのちの世界があるということに気が付くと、もう一つ新しい世界が見えてくると。今のお話そういうふうに受け止めてもいいのかなと思って伺ったんですが。
 
田畑:  そうですね。この点では、仏教とキリスト教に共通点があると思っていますね。仏教のお釈迦様の出家の物語は有名ですけれども、「生老病死」ですね、人間が苦しんで、病になって、死んでいく。そういうふうなこと、彼は自分の体験だけでなくて、お城の門を出たら、そういう現実であった。つまりお釈迦さまの物語を読みますと、自分のことは勿論ですけれど、なんか苦しんでいる人、悲しんでいる人に出会って、彼は、「あ、ほんとに人間の苦しみは自分だけではないんだ」というところに、お釈迦さまの出家の原動力がありましたよね。先ほど言った「同悲」というか、同じ悲しみを味わうということが、如何に大事かということが、お釈迦さまの場合、仏教の一番深いところにあるんじゃないかと思いますし、キリスト教の方でも、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と、パウロという人が述べていますけれど、「泣く人と共に泣きなさい」というのは、今の「同悲」ですね。「コンパッション(compassion:同情、憐れみ(哀れみ)の情)」と言うんですかね、「共感する」と訳されますけど、もともと「苦しみを共にする」ということですね。その「苦しみを共にする」ということの中に、人間の一番深い何かがあるんだということが、仏教でもキリスト教でもやはり捉えられていたんですね。キリストの場合は、まさにキリストの十字架―パッション (passion:イエス・キリストの受難)ですから、「コンパッション」ということは、人間の苦しみと同じになるという、そういうところにあると思いますね。ですから「共苦」とか、「同悲」とか、「共感」ということが、人間にとって一番大事なことじゃないかと思います。
 
金光:  それが現代の亡くなっていらっしゃる方を受け止めているご家族の方もいらっしゃると思うんですが、そういう方が、悲しみにどう生きればいいのか。直面して生きるというのは、こういう古典なんかを通さないで、直に自分の苦しみを超える方向というのは、「生と死を考える会」なんかの例で言いますと、どういう受け止め方で、次のステップへ進めるんでございましょうか?
 
田畑:  私もよく誤解されますけど、古典の話をよくするんですけれど、でも古典を読まなければ、死を克服できないということはなくて、ほとんどの方は別に古典など読まないで一生懸命生きて、そして深く悲しむことを通して、徐々に時間をかけて克服しているというか、受け容れていっていると思いますね。つまり江戸時代の本居宣長(もとおりのりなが)さんがおっしゃっていることですけど、「亡くなったら悲しむよりほかはないんだと。徹底的に悲しむことしかないんだと。そこに特別な約束も何もないけれども、深く悲しみを味わった時に、何か人間として、そこで道が開けてくる」と言っていますね。だから古典を読まなくても、やはり深く悲しむということを、そういう時間とか場所とかがとっても大事だと思いますね。現代はそれがなかなかなくて、「いつまで悲しんでいるんだ」というふうな、そういうような忙しい時代ですから、尚更深く悲しみを味わうことができなくなっていますね。それは精神病理的にもよくないと言われていますので、少しでも解決の見通しがなくても、ゆっくりと悲しみを味わうような場、あるいはそれをお互いに聞き合うことですね。非生産的に見えても、実はそれが一番人間として大事だというふうに言えると思うんですね。そういう私たちの会もそういうふうにして分かち合いというものを中心にして、特別な克服の方向性がなくても、深く悲しむ、そしてそれを少しでも消失できる、表現できる、そういう場を準備しているわけです。
 
金光:  そういうふうに自分の悲しみを表現できる場が生まれてくるだけでも随分違うと思いますが、それがどうも現代の生活をしている現代の日本人の方なんかの様子を見ていると、大体自分は一人で生きているんだと。人の世話にならずに、独立して、しかも人生の計画はこういうふうに立てているんだと。自分の考えの中でいろいろ決断なんかをなさるわけですが、先ほどからのお話を伺っていますと、自分の意識で考えて、こうに違いないと思っているのが崩れても、まだそれでお終いではないんですよと。そこのところを我慢して生きていると、本居宣長さんじゃないですけども、その悲しみ以外にないんだと。悲しむ時は悲しむんだと。その段階を過ぎると、また次の新しい気付きが出てくるという、そういう世界があるのかな、というふうに伺ったんですが、具体的にはそういうことございましょうか?
 
田畑:  そうですね。とても大切なことをご指摘頂いたんですけど、死の問題は、まさに今まで自分が主語というか、主体になって、「私がこれをする、あれをする」というふうに、自分の人生を自分でコントロールできたわけですけど、死の問題は究極の壁になっているわけですね。自分で死なないようにできませんから。そういう意味では、死別体験とか、あるいは自分の死を深く考えるということは、一見悲しいことですけど、非常に大きなチャンスですね。どうしてかというと、今までなかったような人間の可能性が開かれてくるわけですね。つまり『万葉集』の時代から、「せんすべなし(為ん術無し)」という言葉がありますね。「もうこれ以上どうしようもないんだ」という「せんすべなし(為ん術無し)」という日本人の表現が素晴らしいなと思いますね。そこから素晴らしい『万葉集』もそうですけど、芸術というか文学も生まれてきましたね。つまり他者の死とか、自分の死を見詰めることを通して、ほんとにもう自分の限界にぶっつかって、そしてその限界にぶっつかったところから、いろんな叫びとか祈りとか生まれてきましたね。それは広い意味で「宗教」と言ってもいいかも知れません。ですから宗教は、そういう意味で特定の宗教でなくても、人間が死という問題にぶっつかった時に、凄く大きなチャンスを与えるんだと。そこから人間が深まっていくということがよくありますよね。日本の芸術も、ですから『万葉集』も『古事記』もそうですけど、そういう大きな悲しみの中から生まれてきた文学だと言ってもいいのではないかと思います。それは個人個人にも言えると思います。いろんな辛いことを経験した時に、勿論それは辛いんですけど、辛さを深く味わうことを通して、今までかつてなかったような人格の深まりというか、そういうことを私たちの会でもよく見るわけですね。今までなかったような深い人間性が出てくるということはしばしば経験します。
 
金光:  そうしますと、そういう話を聞いているだけで、自分がもうダメだと。それこそどうする術も手立ても何もないことに追い詰められたという時は、むしろそれを我慢して悲しみなら悲しみに向かっていると、それが次の新しい世界への入り口、そういう扉が開くと可能性もあるということを知っているか知っていないかだけでも、受け止め方が変わってきますでしょうね。
 
田畑:  思い出しましたけれど、例えば子育てを一生懸命やっているお母さんが、時々病気になってですね、もう子育てもできない、料理もできないと。そこに横になっているだけだと。まさに「せんすべなき」状態になる時、私も経験しましたけど、その母親が未だかつてないような優しい顔をして、子どもたちを見る時がありますね。つまり無力のそこから出てくる慈悲というものが、親にはあると思うんですね。同じことが私たちもあってね、普段は自分は陰気だから自分中心に見えたりしますけど、何にもできなくなって、ほんとに辛いことを経験すると、もうほんとに自分がどうしようもないと思った時に、何か不思議に他の人に対してなんか優しい気持ちになられる、ということがあるんじゃないかと思いますね。
 
金光:  人間というのは、ちょっとオーバーな表現かも知れませんけれども、大体自分中心に考える習慣ができていますし、自分の都合がいいことが続くと「よかった」と言うし、都合が悪いと「なんで自分は間が悪いんだろう」とか、そういうふうに自分中心の考えが、どうしても根強くあるわけですけれども、むしろ苦しみとか、悲しみというのは、そういう自分中心の生き方が壊れた時、そういう時に、そういう事態が起きるんで、むしろそれはあるチャンであると。だからそれは辛いことは辛いでしょうけれども、そこのところで、やっぱり本居宣長流に、これはもう悲しい時、苦しい時は苦しいながら、そこを我慢する。「忍耐」という言葉が、この頃は流行りませんけれども、やっぱり堪え忍ぶということも、人生の中では大事な時には必要になってくるのかなということを、これは昔の人の方がよくご存知だったのかも知れないという気がしますが。
 
田畑:  その通りですね。今ほんとに「忍耐」とか「堪え忍ぶ」という言葉が、非常にネガティブで消極的な価値しかないように見えますけど、でも毎日生きていることは、やっぱり堪えることですね。小さなことから始まって、満員電車に堪えている人たち、毎日いますしね。毎日来る日も来る日も同じことを繰り返して、通勤電車に乗って頑張っている人とか見ますと、もう忍耐はもう人生そのものだと思うんですね。その忍耐の中に人生の一番大事なものが隠されているような気がします。
 
金光:  それで先ほどからのお話を伺いながら、先生がお書きになった、『ケアの時代を生きる』という、看護師さんなんかになる方を対象にしたお話だと思いますが、その中に無力の話ということになるかも知れませんが、ある看護師さんが非常に憂鬱な顔をなさっていると。それで田舎に両親がいるんだけれども、離れていて何もしてあげられないと。しかも自分自身の今やっていることも上手くいかないと。暗い顔をなさっているのが、ある時その方が明るい顔をして歩いていらっしゃるのをご覧になって、聞いてみたら「田舎の両親にいろんなものを送ってあげるんだ」という。その時おそらくその看護師さんは、無意識だったと思うんですが、非常に明るい顔をしていたと。だからその人間の心というのは、そういう現実を見ていると憂鬱でも、何か他の人のために、自分だけの都合でないところで働かれると、なんとなく穏やかな顔、優しい顔になるという、そういう現実になかなか本人気が付いていらっしゃらないと思うんですけれども、そういう人間の心の柔軟さみたいなものに気が付くだけでも、やっぱり生き方が変わってきますでしょうね。
 
田畑:  聖書の中に、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ロマ12・15)という言葉がありますね。「共に」というところが非常に大事ですよね、人生のあらゆる側面において。悲しんでいる人を見たら一緒に悲しむ。喜んでいる人を見たら一緒に喜ぶ。これがそんなに深いこと人生わからなくても、生きていく糧になるわけですよね。これは仏教のお釈迦さまの教えもそうだと思いますね。キリスト教の教えもそこに共通点があります。「コンパッション(compassion)」と言いますよね。同じ苦しみを味わうというか、同じ感情を経験するとか、そこに特別な答えはなくとも、そこ一緒に繋がっていくところが、非常に人間の生きている糧になるんじゃないかなと思いますね。仏教でも「縁起の思想」というのが一番大事だ、というのもそこですよね。繋がりが大事だと。繋がりであれば、なんとか生きていけるというふうなところで、ほんとに先ほどの看護師さんの話じゃないですけれど、ほんとに私たちは誰かのために小さなことができるということは、生きていく糧になると思いますね。
 
金光:  人間が考えるというのは、「分別」という―分ける「分別」という言葉を使いますけれども、やっぱり自分中心に考えると、「自分に都合が良い、都合が悪い」というふうに分けて考える癖がついておりますけれども、やっぱり分けて考えるところが、「共に」という世界というのは、すべての物事をそのまま受け止めるというか、そういう姿勢から生まれてくるんではないかという気がするんですが、なかなか「共に」のところまでエゴがあるといけない現実があるような気がしますが。
 
田畑:  そうですね。ほんとにこれは仏教でもキリスト教でも最大のテーマですよね。「同悲」同じ悲しみですね。先ほどのパウロも言っておりますように、「喜ぶ人と共に喜び、悲しむ人と共に悲しみなさい」と。その「共に」というところが、人間の一番勘所だと思いますけど、しかしそれをやっぱり鍛えるのが、私は、伝統的な宗教が一番大きな使命を果たしてきたことだと思いますね。仏教を見てもキリスト教を見てもね。現代それが多少弱くなっているのが、非常に人々の精神生活に非常にマイナスになっているんじゃないかと思いますね。「共に苦しみ、共に悲しむ」ということが大切だと。ここに人生の秘訣があるんだということを、やはり折ある毎に伝えていかなければいけないし、また体験して貰わなければいけないんですけど、おっしゃる通り、今の時代はなんか「自分・自分」ということですよね。そこには病のすべてがあるかも知れませんね。
 
金光:  前の「共に」という意味ですけれども、現代は自分が生まれて、自分が死ぬまでが一生だと思っていますけれども、「共に」の中には、日本という国だけではなくて、地球の上にいるすべての人たちも共にでしょうし、それから時間的に言っても、それこそ日本だと『古事記』以来ズッと現代までも生きた人は全部「共に」の中に入ってくる。そうすると、時間とか、空間を超越した世界が「共に」の中にはあるんだろうなという気がするんです。これは頭で考えたところで実感としてまだないんですけれども。
 
田畑:  仏教でもキリスト教でも、まさにそこは一つの悟りの世界のように考えてきましたよね。なかなかそこまでいかないわけですよね。みんな自分のことで頭がいっぱいで、他の人のことを考えられないですけど、そこに仏教もキリスト教もやはり歴史的な使命というか、現在でもあると思いますね。少しでも自己中心を超えて他の人と共に苦しみを味わう、あるいは喜びを味わうということ。本当はちょっと知っている筈なんですけど、人生の中でですね。どうしてもそれがちょっと忘れ去られて自分中心になってくる。そこからいろんな犯罪とか問題も出てきているわけですね。私はすべて人の中に、ちょっとしたきっかけがあると思うんですね。特別な大きな悟りじゃなくても、家庭の中のどこにでも、やはり一緒に共に苦しむ、共に悲しむということが如何に大切なことかということが、みなさんわかっているんですけど、そのチャンスをもっともっと広げていくことが大事だろうと思いますね。
 
金光:  最後にそういう世界でいろんな人たちの話を聞いていらっしゃる方は、自分自身の死ということについてはどういうふうにお考えがあるんでしょうか。変わってきますでしょうか、死というものに対する姿勢。いろんな方のお話を聞いていらっしゃって、先生はどういうふうにお考えでございましょうか?
 
田畑:  やはり自分の生と死を、自分だけの視点で見るんではなくて、この先ほど述べましたように、死という問題は、ある意味自分というものの限界なんですよね。自分で人生を設計したりして考えていくことは、死によって終わりになりますので、じゃ自分の死というものをどう理解するかということは、自分の中からだけでは理解不能になりますね。そこで仏教でもキリスト教でもそうですけれども、やはりもう一つ深いところから自分の生と死を考えた。その時に、仏教であればお釈迦様の教え、キリスト教であればイエス・キリストの教えが、自分の中の生と死を理解する一つのキーワードになって、つまり自分からだけ自分を見るのではなくて、違った角度から自分を見るということが非常に大事なんじゃないかと思います。
 
金光:  どうも大きな問題でしたけれども、ある方向がお話の中から伺えたような気が致します。どうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十七年七月十九日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである