良寛さんの身心健康法
 
                新潟大学名誉教授 桜 井(さくらい)  浩 治(こうじ)
昭和一一年、新潟県分水町地蔵堂(現燕市)生まれ。新潟大学医学部卒業。慶応義塾大学医学部精神神経科学教室で研修。昭和四四年新潟大学医学部精神神経科学教室、新潟大学医療技術短期大学。新潟大学医学部保健学科教授・学科長を歴任。平成十三年、定年退職後は新潟医療福祉大学。現在は新潟市河渡病院デイケア病棟に勤務。
                き き て    金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、「良寛さんの身心健康法」というテーマで、新潟大学名誉教授で身心医学がご専門の精神科医師の桜井浩治さんにお話頂きます。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 

 
金光:  桜井先生は、最初はどういうところから良寛さんに興味をお持ちになったんでしょうか?
 
桜井:  そうですね。私は、もともとが良寛さんが生まれた家から約二十キロぐらいのところに生まれまして、そしてその後壮年期から過ごされた国上山(くがみやま)の五合庵という有名なところがございますね。そこのすぐ麓に近い町で生まれ育ったもんですから、小さい時から良寛さんの名前は聞いておりまして、父が米問屋に勤めていまして、良寛さんをほんとに親しくしていた国上(くがみ)近辺の庄屋さんの方へ米の買い付けで出入りしていたもんですから、庄屋さんで聞かされる良寛。字が上手で、そして凄く習字は紙が黒くなるほど何度も練習していた方だとか、宇宙に字をこう書く真似までして極めた方なんだとか、そういう話を聞かされておりまして、小さい時から良寛さんの本物と偽物の書の掛け軸を並べて父が見ている姿を見ておりますので、それとなく関心をズッと持ち続けて、成人になるに連れてもっと良寛さんを読んでみたい、あるいは書から学んでみたいということが強くなったような気が致しますね。
 
金光:  それで一足飛びに、先生のご専門の精神科のお医者さん、身心医学の専門家の先生のご意見をお伺いしたいと思うんですが、医学部へ入られて、それで精神科の勉強をなさりながら人間の心と身体の関係を追求をなさっていらっしゃった目で、改めて良寛さんをご覧になると、どういうふうなイメージが浮かんでこられたでしょうか?
 
桜井:  そうですね。良寛さんが、禅僧ですから、精神的なものを非常に強調された生活をやっておられるのかなと思って、いろいろ繙いてみますと、特に手紙の内容とか、それから漢詩、和歌もそうなんですけれども、手紙が一番私にとってみると、良寛さんらしい生活の内容が伺えるように思って読んでみますと、ほんとに禅僧ですから、苦しいとか、困ったとか、くどくどと自分の身体のことも苦しむこともなく、悟りに入ってというような、そういうようなイメージはまったくなくて、しょっちゅう手紙の中では、風邪を引いたとか、今日寒さで苦しんだとか、あるいは薬を貰って来たとか、眠れないとか、そういうのがしょっちゅう出てまいります。そう思って見てみますと、どうも精神面だけを説いて、みんなに何か布教しているとか、そういうようなことをなさらないで、身体の方を注意しながら自分の生涯を終えようとしている様が、手紙なんかにもよく出てきているというのが、先ず驚きでございましたですね。
 
金光:  それでその身体のことを考えますと、良寛さんが修行なさった玉島(たましま)(倉敷市の西部にあり、江戸時代初期に港が開かれてからは、「山陽の小浪華(こなにわ)」と呼ばれ、岡山県西部を代表する港町でした)というのは、気候はどっちかというと温暖でございますし、そこで長い間修行なさった方が、またいわば郷里を捨てて出て行った新潟に、また帰って来られますね。
 
桜井:  そうなんですね。
 
金光:  しかも十八歳ですか、出掛けた時は、あんまりあの地方で良寛さんというのは、尊敬される立場でなくて、いわば逃げて行ったみたいなイメージがなきにしもあらずですけれども、そういう方がもう一度郷里の新潟に帰ろうと決心された、その背景なんかは、桜井先生は、何かお考え・想像なんかなさっていらっしゃいますか?
 
桜井:  そうなんです。それが一つ私にとって大きな疑問でもあって、おっしゃる通り逐われるように、あるいは逃げ去るように温かい岡山の玉島の円通寺(えんつうじ)(約1200年前、現在の倉敷市玉島の地に行基菩薩によって星浦観音の霊場が開創され、 その後、元禄11年(1698年)徳翁良高禅師によって曹同宗寺院として開山された)で修行しまして、三十半ばで戻ってくるわけですけれども、もう一遍寒い雪国に帰って来て、しかも乞食(こじき)というやり方ですね、食を乞うことで自分の一日一日を生きていこうとする、そういう覚悟をされて戻ってまいりますね。それは何なんだろうって、一番関心の深いところなんですが、結論的にいうと、雪国で肩を寄せ合うようにして冬を過ごしていった温かみみたいなものが、良寛さんはもしかしたら乞食をする人の門付(かどづ)けをして食を得なければいけない修行に対して、もしかしたら甘えることのできる環境かも知れないというような気持ちが少しあったのかな―よくわからないいんですが、それが―ただそんなふうにこちらの方が、良寛さんに聞いてみないとわからないですけれども、どうも後のサポート(支持)システム(組織・機構)というんでしょうか、困った時に助け合う人間関係ということ―ストレスの非常に多い現代でもそうなんですけれども、周囲の支えがないと問題のストレスの多いこの世の中は生きていけないという、その回避の方法にそういうものの存在を重要視しておりますので、そういうことをこの郷里で求めたものではないか。まったく知らない土地では不可能ではないか、というふうに思ったんじゃないかなと思いますね。岡山の円通寺で修行している時にも、「自分は町へ出てみても、まったく知らない町だ」なんて書いております。ですからそういうものがあったんじゃないかなんて思ってみているんですけども。
 
金光:  いろんな見方があるようで、郷里のことをよくご存知だったので、松本市壽(まつもといちじゆ)さんさんなんかは、「子どもたちが、将来売られていくような境遇の子どもがたくさんいるので、一緒のコミュニティーの働きをあそこでなさったんじゃないか」というような見方をなさっているようですし、あるいはもう一つは、坐禅して修行して、ある境地に―身心脱落みたいな―わかりませんけれども、そういうエゴを超えた世界に身を置かれた方だから、そうすると自分は一度はもうそこを捨てて出て行ったんだけれども、そういう自分がこういう境地に恵まれた、その境地でもう一度生まれて、十八歳ぐらいまで育ててくれた土地に、この生き方みたいなものをなんとなく伝えられたら伝えようかなみたいなことをお考えになったのかな。これは勝手にいろんなことが考えられるんですけども。
 
桜井:  そうですね。
 
金光:  ただそうやって、とにかく決心して、一度は捨てた郷里にお帰りになった良寛さんが、そこでの心と身体の良寛さん流の健康法と言いますか、気配りと言いますか、そういうものは、先生ご専門の身心医学の立場からはどの程度のものとお考えでございましょうか?
 
桜井:  とてもその辺強い構えと言いますか、身心に対する言葉が手紙の中にいっぱい出ていまして、一番私がいつも感激する言葉というんでしょうか、感服していると言いますか、心に思えているのに、弟由之(ゆうし)(1762-1835)への手紙がございますけれども、有名な手紙ですから、みなさんがご存知だと思うんですけれども、由之は父が遣り残した庄屋の仕事をうまく切り回すことが出来ず、隣町の庄屋との利権争いに敗れ、町民の訴訟にも負けて、家財取り上げ所払いの処分を受け、出雲崎に近い与板町(現長岡市)に移り住みます。この年は、由之って妻を亡くすという二重の心痛を抱いていた。そのために由之はすさんだ日々を過ごしていたわけです。その時に放蕩生活に入っている由之を誡めるのに、
 
人も三十四十を越えては おとろへゆくものなれば随分御養生可被遊候(あそばさるべくそうろう)。大酒飽淫(ほういん)は実に命をきる斧なり、ゆめゆめすごさぬよふにあそばさるべく候。・・・をのれ、ほりするところなりとも制せばなどかやまざらむ。
 
人は、四十歳を越えるようになると、身体も衰えていくものだ。だからどうか十分に身体の養生に努めてください。特に歳を取っての大酒や色情にふけることは、自ら命を縮めるようなものです。どうかどうか、あまりにすごさないようにお願いします。・・・例え自分が自ら欲したことであるとは言え、その気で決心すれば、必ず止められるはずです。
 
という、そういう手紙を書いているのと、これはもう六十過ぎてからなんですけれども、由之が手紙を書かなかったんですね。その手紙が来ないので、どうしたのかなと心配していたら、まあ手紙が来たんで、「とても安心した」と、そういう書いた後に、
 
力つくまでは御用心可被遊候(あそばさるべくそうろう)
 
と書いてあるんですね。つまり「死ぬまで健康に用心しようじゃないか」というふうに言っている。その手紙が弟への思いがいっぱい入っておりますけれども、その中に健康法への心の構えみたいなのが、良寛さんにあるということと、もう一つは、やっぱり手紙の中に、白隠(はくいん)禅師という臨済宗の禅をやっていらっした方で、有名な方が、禅の修行をしている時に、身心に異常をきたすので、それをなんとか治したいというので本を書かれるんですね。その養生の本が、良寛さんが生まれる前の年に出ておりますが、その本を読んで、「私はとても調子がいい」ということを手紙で二人ぐらいに書いているんですね。
他の手紙でも、解良叔問さんの息子さんんが上京してしまって居なくなるんですけれども、その後で体調を崩してる解良叔問さんに、「体調はどうですか?」というふうにお聞きしながら、「どうかしっかりと医者に診てもらって治療を受けるようにしてください。酒をはじめ食べ物にも注意して下さい。いろいろ心配事もあるでしょうが、何時までもくよくよと物事にとらわれて気にすることのないようになさった方が良いでしょう。今度の不調の原因の一つには、心配する気持ちが続いているから、ということも考えられます。春になったら、お訪ねし、色々と書画のことや和歌や詩のことなど、お話をしに伺いたいと思っております」という手紙を書いているんです。
他にも維馨尼(いきように)という尼様がおられまして、良寛さんの親友の姪に当たる方なんですけども、その方へも、「随分心身を調ふるよふにあそばさるべく候」身心をちゃんと気を付けて暮らしなさいよ、というような手紙を書いておりますので、そういった病気に対する気遣いみたいなものは非常にされているんじゃないかなと気は致しますね。
 
金光:  白隠さんが、自分の禅病を治すため『夜船閑話(やせんかんわ)』だとか、『藪柑子(やぶこうじ)』みたいな、腹式呼吸を如何にするか。寝ている時はこういう呼吸をすればいいとか、イメージをして「軟酥(なんそ)の法という、頭の天辺に柔らかいチーズのような「軟酥(なんそ)」を頭の上に載っけて、それが溶けて頭から肩、腕と身体に染み渡り、全身を回り流れて、更に次第に下のほうに流れ下り、足の裏に至って止まる、と想像します。こういうのは近代でも多少似たような療法みたいなことを考えてみてもいいんじゃないかなと。
 
桜井:  実は私たちの身心医学をやっている人たちは大体承知している治療法なんですけれども、ドイツのシュルツという方が考案された自律訓練法というのがあります。それは自律神経―身体の内蔵に分布している自分の意志ではどうにもならない神経なんですけれども、それをイメージでコントロールしようという、そういう方法を現代の精神医学、特に身心医学のストレスによって起きてくるであろうことの予防や治療に使われております。ですから現代に通ずるものを先取りして、
 
金光:  確か自律訓練中は、なんか両手がだんだん重くなるとか、そういうイメージで身体のアンバランスを調整すると言いますか、そういう訓練法があるようでございますね。
 
桜井:  そうです。
 
金光:  そういう意味では良寛さんも臨済宗と曹洞宗と違うとは言いながら、そういう身体の健康、あるいは身体の健康を通しての心の落ち着きというか、バランスを考えるというのは、やっぱり日頃から考えていらっしゃったということでございますね。
 
桜井:  そうですね。
 
金光:  それで良寛さんが遺していらっしゃるいろんな論語の抜き書きだとか、あるいは他の良寛さんが気に入ったというか、これと思うものを抜き書きなさっていらっしゃるでしょうけれども、そういうものを拝見すると、やっぱり随分なんか自分には厳しいところがあって、ということはいわば、煩悩を自分の中に湧いている煩悩は勿論ご覧になるんですけれども、それにとらわれてはいかん、というところからのいろんな記録のように、私なんか見えるんですけれども、良寛さんの誡めの戒語というのはありますね。いろんな人に与えて随分いろいろあるんですが、こんなにいろんな、「あまり喋りすぎてはいかん」とか、日常の細かいことを書いていらっしゃるということは、随分気を使った方だなという気がするんですが、戒語についてはどうお考えですか?
 
桜井:  自分が「こうありたい」ということをいっぱい書いておられるんじゃないかなという気が致しますね。ですから確かに気を使っておられましたが、もともとは無口な方だったというふうなことを言っていますけれども、でも本人がある寺に行かれましても、おられるだけで和んだというような雰囲気を持っていた方のようですけれども、あんまり喋らなかったというんですね。ですからあそこにはいろんな言葉のことを言っておりますし、戒語でも大事にして言葉を使う時には褒めることを大事にしながら気を使って言葉に出して初めて価値がわかってくるようなことをいっているんですけれども、ご本人はああいうことを書きながらあまり自分を、お話には、言葉としては出していないんですね。俳句や漢詩、書では能弁ではあっても、ご自分自身は言葉としてはあまり説教じみたことを言っていないです。
 
金光:  抜き書き、記録されている論語の中に、「君子は言わずして人に行わしめる」あそこを抜き書きなさっているんですね。だから喋らんでもほんとに自分が善い行い、正しい姿勢で生きている人は、人を感化することができるというような意味のところを、こういうものがあると思って書き抜きされたんだろうなと思いながら、見た記憶を今思い出しましたけれども、そういうある意味では、文字だけにとらわれていると、窮屈な方と思われるかも知れませんけれど、実際はお会いしていると、ほんわかと温かい空気が辺りに起こるというような、そういう生活をなさっていた方が、有名な最晩年に尼さん―貞心尼(ていしんに)との恋愛という人もいるし、師弟の関係だという人もいるし、それこそいろんな受け取り方ができるんでしょうけれども、ああいう貞心尼とのいろんな歌のやりとりとか、そのお付き合いなんかは、先生はどういうふうにご覧になっていらっしゃいますか?
 
桜井:  宗教家として、貞心尼を最初迎えるんですけれども、やはり一人の女性として、彼女に会うということも非常に楽しみにされた人間的な付き合いをしていったように思いますね。と同時に、やはり宗教人としてどうあるべきかを彼女にも伝えたいというようなことを考えていたようですけれども。ですから最初は貞心尼は非常に良寛さんに近付いてきますけど、終わりの方は良寛さんの方が貞心尼の方をちょっと求める。
 
金光:  そうですね。晩年の一人暮らしの寂しさみたいなものも、素直にそういうのが出ているような気が致しますね。
 
桜井:  ちょうど大事な妹さんが亡くなります。その後に貞心尼が現れますから、まあちょうど寂しい時に現れたんじゃないかなと気が致しますけれども、ほんとに最後の時に貞心尼は、良寛さんが病に臥して「うちから戸を固く閉めて、誰とも会わない」という噂を耳にして、心配して、和歌をやったりしておりますけれども、あの和歌だけを見てみますと、ほんとに生き生きとした人間的な付き合いの和歌がどんどん打てば響くように両方でやりとりやっていますね。
 
金光:  何かお互いの気持ちが躍動していると言いますか、そんな感じがしますですね。
 
桜井:  亡くなられる最期まで続いているような気が致しますね。そういう関係だったんだろうと。それでやっぱり良寛さんは、貞心尼がいたから、例の最初に出会った時に、毬つきの歌を言いますね。
 
つきてみよ 一二三四五六七八(ひふみよいむなや) 九十(ここのとを)(とを)と納(おさ)めて また始(はじ)まるを
 
毬をついてみよ。一、二、三、四・・・九、十で一巡して、また一、二、三・・・と始まる―それだけの歌です。これは貞心という尼さんが贈った「これぞこの仏の道に遊びつつ つくやつきせぬみのりなるらん」に対する返しですが、そんなに仏の道とかみのりとか窮屈を言わないで、まず毬をついてごらん―というわけですね。あの和歌を考えますと、「毬をついてみなさい。一、二、三とついて九、十まで来る。併しそこで終わらない。十からまた一にもどって十まで繰り返されるでしょう」というこの歌を、時間の永遠性をこの和歌が述べている。時間は、毬つきのように一から十まで連続したものがひと区切りして輪となって、その輪を重ねていく形で繰り返され、尽きることのない。時間というのはこの回帰性という現象、重大な真実だ。日めぐり、季節の交代などのように繰り返される宇宙現象は、時間というものが「又戻る」という環状の回帰性を示すものであり、時間はこの「環状の回帰的な繰り返し」を重ねて永遠性を獲得することになる。十で終わってまた一に戻るという、その時間の回帰性であると同時に、どうもいのちの繋ぎというんでしょうか、そういうものをあの中で一にまで戻る戻り方が、単に人の中に自分が生きていくというようなことも含めて考えておられたんじゃない。そういう意味でいうと、貞心尼の存在というのは、良寛さんにとっては、良寛さんが永遠に生きていくための一人の人物であっただろうと思う。
 
金光:  つきてみよ 一二三四五六七八(ひふみよいむなや) 九十(ここのとを)(とを)と納(おさ)めて また始(はじ)まるを
 
それで良寛さんのそういう自分のいのちに対する非常に長いサイクルで、現代の人が考える、生まれて死んだらお終いみたいなことでないところで考えている世界観というのは、随分いろんな和歌なんかにも出ているようでございますし、例えば有名な上田三四二(うえだみよじ)(京都大学医学部卒、歌人、文芸評論家、作家として活躍:1923-1989)さんなんかもおっしゃっているんですね。
 
沫雪(あわゆき)の中にたちたる 三千大千世界(みちあふち)
  またその中に 沫雪(あわゆき)ぞ降る
 
という、「三千大千世界」というような、お経のスケールの大きな宇宙観みたいなものがやっぱり沫雪の中にある。その沫雪の中の「三千大千世界(みちあふち)」に、また「三千大千世界(みちあふち)」があるみたいな、重々無尽の繋がりみたいなのが、越後で育って、一度は出て行って、お帰りになったけれども、そこでの暮らしの中では、そういう非常に人間の一生、このいのち一生だけではなくて、重々無尽の繋がりを持った中で、我々は生きているんだと。この生きている間は、いろんな人とできるだけ仲良くして生きていきましょう、というような姿勢が、どうも一旦出た新潟に帰ってからの良寛さんの生活の中に非常によく出ているような気もするんですが、身心医学を専攻なさった桜井先生が、そういう良寛さんのいわば全体の生き方、生き方全体を通してどういうふうにお感じでございましょう?
 
桜井:  そうですね。良寛さんというのは、自分の人間としての見解と言いましょうか、生きているいのちについての見解もそうなんですけども、そういうものを充分に知りながら、その中で努力して自分生きていこうとしている。多少義憤みたいなものもございまして、そういったものがあるがゆえに緊張した生活を送ることができて、それがストレスを少ししまいの力を持っていたんじゃないかという、そういうところもありますが、非常に生真面目なところもあるんですけれども、ほどほどにユーモアを持っておられましたし、自然界の不条理に対して非常に憤りみたいなものも持ちながら、自分でできる範囲でできることを一生懸命やっておられた。それから一方では、大変な努力で自己鍛錬をされて、句や漢詩や書を極めようとなさっておりますが、そういったふうなことをしながら、仏教の心というものを、自分の身に付けて、そして自分の芸術性を通して、また他に自分を還元すると言いますか、自分の知識を還元していくというような、そういった相互関係の中で自分というものを生かして生きていった。大変ストレスの多い生き方をなさっていたし、環境も非常にストレスの多い環境だったんですけれども、そういったものを克服していくというふうなことをなさった背景を考えますと、いくつか考えられることがあるんですけれども、自由な心というものを持っておられましたですね。自由な心というのは宗教的な面でも派を超えた信心の仕方なんかも、これ自由な心でしょうけども、そういったものを考えまして、良寛さんが子どもと遊んだ。遊ぶということも、自分が僧としてやれることは何かと考えて、そしてそこに役割というのを自分が意識されたかどうかわかりませんけれども、社会の中に生きていく自分というものをそこに位置づけていったという、そういうようなこと、あるいはいのち尽きるまで用心していこうというふうなことや、有名な三条(さんじよう)の大地震(文政十一年(1828)十一月十二日、午前八時頃)の時に、
 
災難に逢(あふ)、時節には災難に逢(あふ)がよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是(これ)はこれ災難をのがるゝ妙法にて候。
 
という、それが災難を遁れる最善の方法であるというような手紙を書いております。絶対に逃れることのできないことであれば、それを受け入れてしまうこと。受け入れてしまえば逃れるも逃れないも一体となってしまって、災難と感じなくなる、というのでしょうか。その前に「死なないで長生きをすればしたで、出し抜けにこのような酷い災害に遭うというのも切ないことですよ」と言っておいて、そういうふうなことをおっしゃっている。この言葉が「力つくまでは御用心あそばさるべく候」という弟由之への手紙にあるように、災難に遭ったり、死ぬ時節にそれを受け容れるのが、逃れる方法なのかと考えると、どうも二つの意味があるのかなと。一つは、「災難だとか死ぬという、こうしたことは何時か来ることだ。そのことをしっかりと知って覚悟し、用心し、避けることの出来ない死や災難に突然遭っても後悔したり驚いたりしないようにしておくこと」という意味が含まれているのかも知れません。だから、それに対する用心というものをいつもしていなければいけないという。だから、完全な運命論者ではなかったんじゃないかなという、そういう気がしまして、そういったことを言おうとしているんじゃないか、というように思います。それからもう一つは、「そういう人生だから一日一日しっかりと生きていこうじゃないか」ということを、案に伝えているのではないかな、と思ってみたりしているんですね。ですから、そういうことを精神学的に言えば、そういったストレスをどうやって回避していったかというようなことを、自分でそうあったわけではないんでしょうけれども、そういった生き方、義憤とか、あるいは周囲との交流だとか、それから自分をこんなふうにして他に尽くすという、そういう心のあり方とか、それからその根本には慈愛の心というんですかね、鳥や獣でも命あるものには慈しみを、情けをかけるというような言葉も言っていますけれども、そういった気持ちがストレスを回避していく大きな支えになっていたんじゃないか。そういうものを持っていたからこそ、他も良寛さんからいろんなものを得て、そして彼自身が他から認められて、自己の生き方に対しても、反省はされておられますけれども、やはり自信を持っておられるから、自分の生き方を貫くことができたんだろうし、そして周りに良寛さんのそういう生き方を認めてくれる他の人の存在がサポートシステムとしてあった。例え多くの庶民が良寛さんの生き方や行動を理解しなくとも、例え弟や妹さんなど少数であれ、自分と同じ目線の中で理解してくれる者が身近にいる。この人間関係がどんなに良寛さんの心を支えてくれた。そういった少数の方でも彼の生き方を認めてくれていますから、そういったものが私たちの生き方には大事なんじゃないか。そういう心構えと仲間を持っているということが、特に歳をとってから大事なんじゃないかなというふうなことを教えてくれているように思うんです。
 
金光:  そういう生き方は、現代の私たちもこれから自分に合う範囲で大いに参考にすることができるんではないかなというふうに思いながら伺いました。どうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十七年七月二十六日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである