親鸞聖人からの手紙 D他力と自力のちがい―第六通
 
               武蔵野大学名誉教授 山 崎(やまざき)  龍 明(りゆうみよう)
 
ナレーター: 「親鸞聖人からの手紙」その第五回「他力と自力のちがい」、お話は武蔵野大学名誉教授の山崎龍明さんです。
 
山崎: 「親鸞聖人からの手紙」第五回目でございます。本日は「他力と自力のちがい」です。「自力(じりき)」と「他力(たりき)」という言葉があります。若い人たちの中には、この字の読み方を知らない人も多くいます。「ジリョク」「タリョク」と読まれることが多くあります。ましてこの語の正しい意味など、ほとんどの人は知りません。一般的に正しい意味とは違って用いられております。つまり他力本願と言えば、ただそれだけで「ひとまかせ」、あるいは「横着もの」の代名詞のように用いられます。国語辞典を見ましても、「他人の力をあてにして目的を達成すること」こう記されています。辞典にあるのですからそう理解しても誤りとは言えないと思います。しかしこれは正しくない用例といってもいいかも知れません。もとより大切なことは、「自力(じりき)」とか「他力(たりき)」という言葉は、人間が―私たちが、迷いの煩悩―心の汚れですね―を超えて悟りを得る道として二つの道がある。それが「他力(たりき)」であり、「自力(じりき)」であると、こういうふうに押さえておくことが大切だと思います。一般的には、
 
「自力」とは、自分の器量・能力をあげて懸命に修行に励み、戒律を守ることによって、悟りに到達する道
「他力」とは、阿弥陀如来(あみだによらい)が、一切の生きとし生けるものを、この教えによって幸せにしたいという願いを立てた、その教えを信じ悟りに至る道
 
ということになります。大切なことは、親鸞聖人が、この「他力」と「自力」という言葉は、親鸞聖人の言葉で申しますと、
 
往生の根機(こんき)に他力あり、自力あり
 
と、こう述べておりますから、要するに、「私たちの迷いを超えて、悟りに至る道に他力と自力という二つの道がありますよ」ということを、親鸞聖人は押さえておりますから、ですから「自力」とか「他力」というのは、私たちの日常の中での一般的な言い方とは少し違うということがあるわけであります。親鸞聖人は、「他力」というのは、一体何であるのか。
 
他力といふは如来の本願力なり
 
と。言葉は少し難しいかも知れませんが、阿弥陀如来の教えの働き。「力」とこう書いていますから、英語ではこれを「パワー(power)」と表現しておりますから、「阿弥陀如来の教えの働きを他力というんだ」という言葉が親鸞聖人の言葉に見えるわけであります。さて前置きが少し長くなりましたが、手紙の本日の第六通というところでは、この「他力」と「自力」ということを詳しく示したものとして、極めて大切なものとして、昔から考えられてまいりました。この第六通のお手紙と申しますのは、「笠間(かさま)の念仏者の疑い問われたる事」あの関東の常陸(ひたち)(茨城県)の笠間の念仏者たちの質問、その質問に答えられた箇所とこういう書き出しから始まっておりますが、笠間はご承知のように常陸国(茨城県)笠間郡(かさまごおり)で、親鸞聖人が活動されました関東での大切な拠点と言われる場所であります。これは伝記などによりましても、稲田(いなだ)の草庵―現在の西念寺(さいねんじ)というお寺が 水戸(みと)線の稲田というところにありますが、あるいは山伏弁円(やまぶしべんねん)という人のおられた板敷山(いたじきさん)(大覚寺(だいかくじ))、こういうところを中心としての念仏者の親鸞聖人に対する質問の手紙であります。手紙から申しますと、先ほど少し申しました
 
それ浄土真宗のこころは、往生の根機に往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺(てんじく)(印度)の論家、浄土の祖師の仰せられたることなり。
 
こう書いてあります。簡単にこの手紙を訳しますと、「浄土真実の教えからすると、浄土へ生まれる道には、他力によるものと、自力によるものとの二つがあります。これはインドの仏教者が、中国、日本の浄土教の祖師方が明確に説かれているところです」こういうお手紙の書き出しでありました。大事なところは、自力とは一体何か。これはお手紙で申しますと、
 
まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて、余の仏号を称念し、余の善根を修行して、わが身をたのみ、わがはからひのこころをもって身口意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり
 
つまり、「まず自力というのは、人々がそれぞれの縁にしたがってアミダ如来以外の仏の名を称え、また、念仏以外の善い行いを修めて、どこまでも自分の能力をたのみとします。また、自己の理性、考えに基づいて、身体、口、こころのみだれを整え、清浄さをたてに浄土に生まれ変わろうとする道です」、これが基本的に親鸞聖人の「自力」というものの概念であります。ちょっと難しいでしょうか。そして一方、「他力」と言いますのは何か言いますと、
 
また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。
 
と示されています。これはそういった我が身を頼んだり、戒律を守ったり、修行するということではなくて、親鸞聖人は、「他力と申すのは、阿弥陀如来が一切の生きとし生けるものを救い幸せにしたいという願いを当てられた、その教えを生きる拠り所として救われていくものが他力の人々である」と。簡単にいうと、こういう自力と他力の意味を、親鸞聖人は、お手紙で述べておられます。その自力と他力のところで、これは親鸞聖人の先生であります法然上人が大変重要視されたことですが、これはちょっと難しいですが、
 
(ぎ)なきを義とす
 
これはなかなか哲学的なことなんですが、要するに阿弥陀如来の教えに生きるものは、阿弥陀仏の教えを、自分の立場であれこれ結論付けたりすることをしない。
「義なき」の「義」とは、「人間が、理性とか知性といったもので、自己中心的にあれこれ教えを思い量ることをしない。「義」というのは、一般的には仏教では、「はからい」とか、「計算する心」ということになります。
「義とす」の「義」というのは、道理、法則という意味。簡単に言うと、阿弥陀の教えを私たちが自己中心的に、あれこれと斟酌(しんしやく)しないということを法則と致します。
これが実は他力という世界ですよ、ということが、親鸞聖人の言われることであります。そこには私たち人間にとりましては、知性とか理性、これ大変大事なものでありますけれども、親鸞聖人は他の『教行信証(きようぎようしんしよう)』という書物なんかで、人間の二つの毒について示しています。私たちの人間の知性とか理性というものを、「智愚(ちぐ)の毒」という。「智」とは智慧ことです。この場合には、人間中心のものの見方による智です。「愚」は愚かさ。「アミダ如来の教え(薬)はよく智愚の毒を滅す」と経典に書かれてありまして、このことについて述べておられます。それはどういうことかと言いますと、「智の毒」というのは、「智」は智慧あるものですから立派な方、そういう方々にもそれなりの毒というものをもっている。「愚」というのは、愚かですから、愚かな人間には、愚かな人間のまた毒というものを持っているんだ。こういうことを、つまり阿弥陀仏の教えに出会っていくと、そういう智と愚の毒性を気付くことができるんだ。もっと身近なことで申しますと、私は立派な人間は、誰から見ても立派な人間ですから、非難されることがありません。でも親鸞聖人は、立派な人間には立派な人間のまた躓(つまず)き、あるいは誤り、もっと言ったらいやらしさもありませんかというのが、智の毒なんですね。それは我々は、知性とか理性とか教養とか、そういうものだけをひけらかして、そうでない人をどっかで差別したりして、蔑んだりする。これが親鸞聖人の「智の毒」なんですね。勝れたものの毒性と言ってもいいかも知れません。そして「愚の毒」というのは、文字通り愚かな者の毒と言いますならば、私たち智慧を持たない者の人間であるが故の、悲しさとか、あるいはおぞましさとか、こういったものを、今度は愚かな者の毒、これを「智愚の毒」という言葉で、これは先ほどの「無義をもって義とす」と言いました。貴い真実を、私たちは自分の理性や知性だけであれこれ斟酌するということは誤りであるというところから、そういう我々の貴い智慧とか理性とか、そういった教養、そういったものにとらわれて、人間はどこまでも傲慢になっていく。つまり自己を誇るというんでしょうか。こういうことを「智の毒」と言い、その反対の愚かさがもたらす私たちの心の闇、そういったものを「愚の毒」というふうに。私はこの言葉に心引かれることがありますのは、やはり現代という今を生きる私たちの時代は、こういった智の毒、愚の毒の坩堝(るつぼ)の中にあるんではないかということなんですね。もっと言いましたら、近代という時代の闇、それが智というものの毒に当たると言ってもいいかも知れません。私たちの人間そのものもそうですが、政治も経済も、あるいはひょっとしたら宗教と言ったものも、この闇の中に落ち込んでしまって、方向を見失っているというのが、私は現代今私たちが生きている時代というものではないか。そういうことを実は「智愚の毒」と言われたのは、経典では、釈尊・お釈迦様でありますから、二千五百年前の釈尊が、人間というものをどこまでも深く洞察―見抜いたものとして、人間にはそういう二つの毒性というものがあります。その毒性に気付いて生きることが大切なことですよというのが、先ほど申しました「智愚の毒」ということに、私はこうなると思うんであります。少し「無義の義」ですとか、「智愚の毒」と難しいことを申しましたけれども、そういった煩悩を持った、煩悩ですから欲、怒り、腹を立てる心、あるいは道理に暗い―これを愚痴というんですが、こういったものの中にしか残念ながら生きられない人間は、親鸞聖人はこれを「煩悩具足(ぼんのうぐそく)」という言葉で表現するんですが、手紙には「わるきものとおもうべし」という言葉が見られます。これは、例えば人間というのは、私はこんなに悪い存在だから救われようもないだろうということを考える。逆に私はこんなに立派なことをしたり、立派な生き方をしているから、私の救いは間違いないだろうと自惚れる。こういう二つのことに対して、親鸞聖人は、「わが心よければ救われると思ってはならない。これはあなたのはからい、計算ですよ」ということを言われる。また逆に「自分の心が善いから必ず救われるんだと思ってもならない。これもあなたの自己中心的なものの考え方ですよ」。ということは、救いというのは、親鸞聖人は、「他力の救いというのは、阿弥陀仏という仏の教えに、私が生きる道を問いたずねるところから開かれる教えですから、私の自己中心的なはからいで、私は救われるだろうとか、いや救われないだろうというのは、どこまでも自分の尺度でものを考えている。教えというものは、そういうものを遙かに超えたところの世界である」ということを、手紙の中から知ることができるわけですね。その他、付随しましては、いろいろなことがあるんでありますが、親鸞聖人は、「私たちのエゴ剥き出し―自我(エゴ)と言いますが―自我剥き出しの心では、なかなか私たちは救われるということが難しい」と。そういう心の中から、もっと申しますと、浄土という―悟りの世界を浄土というんでありますが、親鸞聖人は、浄土というものに二つありまして、「真の悟りの世界という浄土」と「仮の浄土」。親鸞さんは「方便の浄土」―方便というのは、嘘じゃないんですね―仮ということですから。「真の悟りの世界である浄土」と「仮の浄土」というものがある。その自我剥き出しで生きている人間は、そういった仮の浄土と言われる方便の世界、浄土にしか生まれることができないんだ、ということを言われるわけです。その「方便の浄土(仮の浄土)」というのは、四つありまして、
 
懈慢=自己にとらわれて慢心している世界。
辺地=誰とも交わることのない辺鄙な世界。
胎生=母親の胎内のように閉ざされた世界。
疑城=自己以外を信ぜず、他を一切認めない世界。
 
つまりそういう方々が生まれるのが仮の方便の浄土であると。でもそういう浄土に生まれて人は、永遠に救われないかというと、親鸞はそうではなくて、その世界で誤りに気付いて真実の教えと出会った時に、必ず真の救いの世界である浄土に生まれるんだ。この辺りは、親鸞聖人独自の仏教観でありますが、大変難しいことでありますけれども、そういう浄土に真実と方便、仮という二つのものがあるんだということを説かれました。そして私たちの教えの中が、欲、怒り、腹立ちという煩悩の問題が非常に重要になるんですが、私が若い頃、歴史学者で笠原一男(かさはらかずお)先生という方が、NHKブックスで『親鸞―煩悩具足のほとけ』という本を書かれました。これはこの本が出ましてから大騒ぎになりましてね、煩悩を持っていたら仏ではないじゃないか、ということで随分議論がなされたんですけども、笠原先生は、そうでなくて、そういう邪(よこしま)な欲とか怒りとか私たちの人を嫉むとか妬むとかいったこういう煩悩を持ったままで、私たちが実は阿弥陀仏の教えに導かれることによって、私たちは救われていくんだということを、「煩悩具足の仏」という言葉で表現されまして、私はあまり抵抗がなかったんでありますけど、そんなことがありました。仏教には、「諸仏思想」という言いまして、仏教は、釈迦・釈尊一人主義、釈迦絶対主義ではないと私はこう思うんですね。ということは、釈尊の教えを側面から証明する、この教えは正しいんだということを証明する方々を、仏教では、「もろもろの仏」これを「諸仏」というんですが、お経にはよく「恒河(ごうが)沙数(しやしゆ)諸仏」という言葉がありまして、「恒河」というのは、インドのガンジス河ですから、ガンジス河の砂の数ほどの多くの仏方がおられたんだ。そしてその多くの仏方が、釈尊の説かれる教えの真実性を明らかにしているんだ、という表現がお経にはたくさん出てまいります。それは今申しました釈尊という方は、自身のことを拝んではならないとか、このやがて老いていく肉体を拝んで何になろうかとうことを言われたお方であります。つまりこの肉体でなくて、私の自覚した、目覚めた真理である法ですね、教えですね、この教えに出会うものが、真に私に出会うものであるという姿勢を貫いた方であります。私はその辺り大変魅力を感ずるものの一人であります。そしてその次の問題ですが、釈尊はお経の中で、この仏の教えを喜び、それを支えにするものは、「私の親しい友だちである」即ちこれわが善き師なりと。友なりと。こういう表現を経典にされます。それは、
 
法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶(よろこ)ばば、すなわちわが善き親友(しんぬ)なり
 
だから私は、仏教というのは、釈尊をいたずらに崇め奉るんじゃなくて、私の親しい友だちなんだと。だから私は仏教というのは、釈尊と友だちになる教え。不遜だと叱られたことがありますけど、私はそういう認識をもっております。釈尊は、また経典の中では、その教えに生きて、教えを拠り所にして人生を生きる人は、人間の中の蓮の花のように素晴らしいお方であると、こういうことを経典に述べます。仏教の華は、蓮の花なんですね。聞くところによりますと、インドでは蓮の花と言いますのは尊敬する人に差し上げるお花のようであります。日本とは随分違いますね。と言いますのは、みなさんご承知のように、蓮の花は美しいところには咲きません。じめじめどろどろとした泥田の中であのような美しい花を咲かせます。この場合のじめじめどろどろとした泥の田圃というのは、これ私たちの人生を意味するんですね。老いること、病気になること、あるいは死ななければならないこと、あるいは愛する者と別れるとか、あるいは嫌いな者ともやっぱり会っていかなければならないという、私たちの現実ですね。苦しみそのものの現実、それを蓮の花の田圃というものに譬えるわけでありますね。その苦しみ、泥田のようなそういう汚れに負けずに素晴らしい花を咲かせる、その尊さを蓮に譬えるのです。美しい花を咲かせるためには泥の田圃も私は必要だったのではないか。遠藤太禅(えんどうたいぜん)という方は、
 
この泥があればこそ咲く白蓮華(びやくれんげ)
 
という歌を残されました。この泥―この苦しい人生がある。この苦しい人生があるから、私の中でまた素晴らしいものに出会えたんだという歌でありましょうか。その他中国では、蓮には四つの徳があると言いまして、
 
朝開夕閉(朝開いて夕方閉じる)
一茎一果(一つの茎に一つの実)
花果同時(花と実が同時である)
泥中君子(よごれにあっても染まらない美しさ)
 
というものです。
私はこの四つについて、
 
朝開夕閉(いのちのけじめをまもる)
一茎一果(一つのいのちを生きる)
花果同時(今、このいのちを生きる)
泥中君子(よごれの中で自分を失わない)
 
と理解して、この四徳を大切にしています。
これを蓮の花のように素晴らしいお方があるというふうに、釈尊は譬えられるわけであります。さて、さまざまなことをお聞き頂きましたけれども、究極的には今申しました教えに生きるということは、親鸞聖人のところで申しますならば、私たちの現実に抱えている苦しみや悲しみがなくなるということでなく、それは老病死、あるいは愛する者との別れ等々なくなりません。しかしその苦しみが教えを学ぶことによって転換されていく。どんな方にも老病死はなくなりませんから。老いが苦しいというのは、老いを受け止められないから苦しいんですよね。病気が苦しいというのは、病んでいるんだという自分を受け止められないから、どうしてこんな病気になるのか。この歳で。しかも選(よ)りに選(よ)ってこの私が。それが苦しみを生み出しますから。その老病死、あるいは愛するものとの別れ、その他さまざまななくならない苦しみを教えと出会うことによって、その苦しみを転じていく。その転じる働きが、実は阿弥陀仏の教えにあるだというのが、親鸞聖人の教えの私は根幹ではないか。苦しみはなくなれば、こんなに素晴らしいことはありませんけれども、なかなかなくなる苦しみと、またなくならない苦しみというものも、ひょっとしたらあるかも知れません。そういうことを考えますと、私たちが生きる―人生と言ってもいいんでしょうか、生きるということは、ある意味では苦しみとの闘いと言っても、私は決して間違いではないんではないか。ですから先ほどの自力の仏道という世界に生きられる方々は、親鸞聖人は実に尊い立派なお方であると、お手紙でおっしゃっている。それは何とか苦しみを自らの力によって、修行によって、戒律によって、そこを乗り越えようと、そういう努力をされて修行に励む方でありますから、実に素晴らしいお方。他力の仏道に生きる私たちというのは、そういう純なる行い、あるいは修行を行うということ、戒律を保つことができない悲しい人間性を持った私たちは、そういう悲しみ苦しみを持ったままで導かれるという阿弥陀の教えに出会うことによって、苦しみが転換されていく。これが阿弥陀仏の教えであると、こういうふうに親鸞聖人は言われるわけであります。先ほど申しました、「義なきを義とする」私たちの自己中心的なはからいをしないことを教えの法則とする、道理とすると、こう申しました。このことにつきまして霊山勝海(よしやましようかい)師は、「理性的思慮」とこう訳しております。霊山先生は、
 
本願の信を妨害する最大のものは悪魔でも異教徒でもありません。私の内部にある理性的な考えなのです(中略)。人間には理性では把握できない問題があります。いのち・死後のことなどです。そのような理性の能力を超えたことがらについて、開眼(かいげん)されたのが釈尊であり、それはさとりの智慧によって、見すえられたものであります(中略)。愚者になれというのは、理性的思慮のおよばない浄土の問題に関しては、私どもは完全に無智でしかありえない、その自覚にたって、ただ一人の智者である釈尊の勧めに耳をかたむけよ、ということなのです。
 
このように霊山(よしやま)先生は指摘しておられます。理性と信心という、言ってみますならば、実に古くて新しい問題を考えるうえで、私はこの先生の指摘は大変大切なものだと考えております。
 
     これは、平成二十七年八月九日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである