老いに学ぶ
 
                   聖香園愛の家園長 山 本(やまもと)  修 司(しゆうじ)
                   き き て    金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、「老いに学ぶ」というテーマで、愛知県豊田市にあります「聖香園(せいこうえん)愛の家」の山本修司さんにお話頂きます。山本さんは、一九三二年(昭和七年)のお生まれ。青年時代に肺結核を患い、三十九歳の時に、自宅を開放して「聖香園愛の家」を創設されます。そして人生に悩む若者と共に農業をしながら、いのちを大切にし、人々を愛する福祉の心を育てる人間道場を営んでこられましたが、体力の衰えた現在は休業中ということです。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 

 
金光:  私、こちらへお邪魔して、最初の時か、二度目の時でしたか、そこの床の間に良寛さまの
 
やちまたにもの思ひそ弥陀仏の本(もと)の誓ひにあふと思へば
 
有名な歌の軸が掛かっているのを見て、あれ、山本先生は、良寛さんを真似ていらっしゃると思ったことがあるんですけれども、それからもう随分何回かお邪魔しているわけですが、先ず今の心境から伺わして頂けますか。
 
山本:  今の心境と言いますと、若き日に肺結核になって、それが縁になって、「雪降っているのはどういうことか」「死ぬというのはどういうことか」ということを否応なしにこう考えさせられて、そういうことで、あの頃はなんで選りに選って僕が肺病になるかと思ったけれども、その嫌っておった肺病のお蔭で、たくさんな本に出会い、また善き師に出会うことができたと。そういう点では、「病は善知識だ」ということが、頭ではわかるんですけれども、いざそれじゃ足が弱ってくる。歯も入れ歯。そういうふうになりますと、困ったり、辛いなということに出会うと、すぐに、ああ、今までお世話になったのに、全然お礼がいうていない。しかもそういいながら、なんか心から喜べるという世界がなかなか与えられてこない。ごく最近なんですけれども、八十になって喘息が出たんですね。それで母が喘息は持病でございましたから、頂いてはおったんですけれども、外へは出てくれなかった。喘息というのは、呼吸困難になりますので、えらければえらいほど、まるっきり母を忘れておったわけではないんですけれども、呼吸困難でえらければえらいほど母が思い出されるわけですね。忘れられないのは、母が、喘息が原因で脳溢血で四十代でこの世を去りましたけれども、八十になって喘息が出たお蔭で、まるっきり忘れておったわけじゃないけれども、幼き日の母のことが思い出されるわけです。今から思うと、申し訳ないやら勿体ないやら、唯々(ただただ)頭が下がるんですけれども、あれは五歳か六歳の頃だったと思うんですけれども、腕白小僧が五、六人家に遊びに来ていて、そのうちに遊びに飽いちゃって、「なんか面白い遊びはないか」と言われて、ガキ大将の私が、「それじゃあの床の間に掛け軸が掛かっているだろう。あれ、誰が一番小便掛けるかやろうか」と。そうすると、小僧たちは、「それは面白い。やろうやろう」と。それで幼い時、負けん気が強かったのか、「それじゃお前が先やれ」。それで急に膀胱に小便が溜まるわけじゃないですけど、みんなにやらしておいて、一生懸命地団駄踏むようにして小便溜めて、それで最後にガキ大将の私が「俺が一番かける」と言って始めた時に、父親が入ってまいりまして、父親が、「こら!」って。子ども心に悪いことをしているという自覚はあるんですね。その証拠に「逃げろ!」というわけで、縁側から飛び降りて逃げるわけです。私も捕まったらこれは大変だなと思って、逃げようとしたんですけれども、縁側のところで、首筋をグッと掴まえられ、ぶら下げられるようにして、「何をお前はやっている!」って。私も良いことをやったという思いはありませんから、シュンとして黙っておったら、「今、お前たちが小便掛けた掛け軸は、家にとって非常に大事な掛け軸なんだ。あんたは覚えがないけれども、あれはお前のお爺さんの肖像画で、しかも辞世が書いてある」って、自筆で。ところがそんなこと聞く耳持たんでいる。「悪いと気が付いたか!」って言われて、黙っておったら、「わからなければわかるまでこうしておれ」ということで、庭の大きな松の木があたんです。そこへ縄で縛られて、それで父は部屋へ入っちゃう。その時に、〈お母ちゃん、何しているんだ。助けてくれないか〉って。それがなかなか母が姿を見せてくれんわけですね。ガキ大将、ボロボロ涙流して庭でふくらしている。そして夕方になってやっと母が来てくれて、黙って縄を解いてくれまして、「お腹空いたでしょう」って。「おにぎりを持ってきた」。懐からおにぎりを出して、それで「修ちゃん、悪いと気が付いた?」「気が付くかえ。小便掛けたくらいでこんな目に遭わせて」って。「それじゃね、食べ終わったら、また括りますよ」って。それでおにぎりを食べて、お茶を飲ませて頂いて、また括られて。その時ですね、「あなた一人でここへ、お母さんよう置いておかないから、あなたが悪かったと気が付くまで、お母さんもここにおりますよ」というて、私の足下へバサッっと坐っているんですね。ところが不思議なことに母が傍にいてくれるというだけで、なんかこう頑なに凝り固まっておった私の心が、こう解きほぐされていくというんでしょうか。暫くして、「僕、やっぱり悪かった。お父さんに謝る」というたら、母が、「よう気が付いてくれました。それでお父さんの前へ行ってあなた頭を下げるだけで、後はお母さんがちゃんと、あなたに代わって、お父さんにお詫びをするからね」って。それで縄解いてもらって、母と一緒に父の前へ行って、「私の躾が悪いために、今度のようなことが起きました」。悪いのは母でなくて私だがね。その私の罪というか、悪戯すべて、私の責任なんだって。それ全部背負ってくれた。そういうことが忘れておったわけじゃないんですけれど、思い出したことがほとんどないのに、八十になって喘息になったお蔭で、昨日のことのように鮮やかにその場面が思い出されてくる。そういう思いを致しまして、〈ああ、喘息のお蔭で、呼吸困難のお蔭で、ほんとに母に出会えた〉。そういう思いやりとしましてね。そうしますと、自分にとって言えば、辛いな、悲しいなというだけで終わるのではなくて、その呼吸困難のお蔭で、亡き母にこんなに鮮やかなお出会いをさして頂いたと。そういう世界を頂いて。ところが二十一世紀の夜明けを迎えて十五年になるわけですけれども、跛行(はこう)文明というんでしょうか、バランスが崩れておるという。どういうふうにバランスが崩れているかというと、科学文明・物質文明と、精神文明と非常にバランスが崩れている。片一方では、リニアモーターカーが走る。それなのに片一方では生活に困窮する方がたくさんいる。そういう精神文化と物質文化とがアンバランスになっている。それをどこでバランスを取り戻すかということは、この二十一世紀の日本だけではなくて、人類文明の大きな課題であろうとこう思います。ここからほど遠くはないところで、大河内君という中学生が自殺をして、虐めが原因で(1994年11月27日深夜、愛知県西尾市の市立東部中学校2年の大河内清輝君(13歳)が自宅裏庭のカキの木にロープをかけ首吊り自殺。姿の見えなくなった息子を探していた母親(当時44歳)が発見した。死後、遺書が見つかり、その悲惨ないじめの事実が社会に衝撃を与えた)、そういう問題が、またあちらこちらでも出てくると。そういうことで文部省も、教育委員会も、一番大事なことを忘れておみえなんではないかというのが、私の若い頃からの一つの大きな問題でございまました。人間教育ということであるならば、やはり人間成長というのは、どういうことかということがわかった者でなければ、本当の人間教育は出来なかろうと。ここから七里半ぐらいのところに碧南市浜寺町の西方寺(さいほうじ)という清沢満之(きよさわまんし)(真宗大谷派の僧。愛知の生まれ。浩々洞(こうこうどう)を結成して雑誌「精神界」を発刊し、絶対的精神主義を唱導した。大谷大学初代学長を務めた:1863-1903)終焉の寺ですけれども、ご縁があって年数回、いまだにお喋りに行っているんですけれども、みなさんのお蔭で、清沢満之記念館ができまして、そのお世話をなさっている酒井笑子(さかいえみこ)という方が、お見えなんですが、酒井笑子さんが幼い時に、自分の家の床の前に、
 
自己とはなんぞや
これ人生の根本問題なり
 
と。清沢満之先生の自筆のようですけれども、それが掛かっておって、だんだんと大きくなるにつれて、「自己とは何ぞや」って。それが大きな課題で、そうしますと、人間にはいろんな問題、人生にはいろんな問題があるんだけれど、根本問題は、自己が明らかになるという。そうしますと、「自分自分」というているこの自分というのは、一体何者なのかという課題を背負って、その酒井さんは―小学校の先生をおやりになっておるんですけれども、それのお蔭で親鸞さんに深く出会い、石川県の林さんという方ですが、名づけて貰ったというんですが、自分の家を開放して「愚者倶舎(ぐしやぐしや)」という名前を林先生に付けて頂いて、「愚者」―おろかな者が、倶に集(つど)う家というので「倶舎」。「愚者倶舎」というそういう名前を頂いたって、お話くださいましたんですけれども、これは一女性の問題じゃなくて、やはり学校の教育の中に、自分自身を「人間とはいかなるいのちか」と、そういう教科がもたれるようにと、ご縁のある学校で一生懸命にお願いをしてまいりましたけれども、なかなかそちらには、「おっしゃる通りですね」とはおっしゃってくれますけれども、方向転換は非常に難しいと。それで厚かましくお寺で、一番大事なことを学校でしてくださらなければ、お寺で―昔は日曜学校と言って、私ども子どもの頃は、お寺に行ったんだけれども、「自己とは何ぞや」なんていう話は聞いたことはなかった。何とか心あるご同行の方々と自己を学ぶそういう私塾を開いて頂いたら有りがたいと訴え続けて、五十年ほどになりますけれども、現実はなかなか実現致しません。そういうことを考えました時に、先ず私が、「自己とは何か」ということがよく分からさして頂いて、そして生きる―生かされて生きるわけですけれども―生きていく。それでいいんじゃないかと。みんなを動かそうなんてそれは無理な話で、私が自己に目覚めて生き死にすると。それで問題解決と申しましょうか、今そんなに若い時のように力(りき)まんでもいいし、一日一日を大事に、それは辛い日であったり、苦しい日であったりするんですけれども、それを頂いていこうと。まあそういうところへ今落ち着いておるわけでございます。
 
金光:  最近は、お身体の調子がよくないのでお休みになっていらっしゃるそうですけれども、今のような、自分がありのままの与えられた自分の生き方でいいわ、というところで、困っている人たち、どうしていいかわからない人たちと共同生活をなさっていると、自然になんか自分に目覚めると言いますか、自分の生き方に目が向いて考え直すきっかけになるものでございますか。
 
山本:  そこがきっかけになって広やかな世界へ目覚めていく者もいるんですけれども、それじゃ同じ環境で一緒に生活しておったら、一人残らずみんな目覚めるかというと、そうはいかないんですね。そういう点で、真実自己に目覚めるということは、一律な方法で自覚を促せるかというと、そうはいかない。これが大きな問題でございますね。やはり一人ひとりの出会い、一緒に生活しているんですけれども、この子にはこういう接し方、こういう語り掛け、やはり変えなければいけない。そうなりますと、先ず相手を知るという。教育の第一歩は、何を教えるんじゃなくて、先ず相手をよくわからさして頂く。ここから始まるんだろうと思いますですね。そうしますと、今の一学級何十人という学校教育で、真の人間教育をやれというのは、非常にこれは大問題でございますね。家庭でも、一人ひとりの親がよく理解して対応するというようなことは、それは夢物語でございまして、ここに人類の大きな課題が一つあると思いますね。
 
金光:  その問題と、これは共通する問題かと思うんですが、山本先生の若い頃結核というと、これは死の病ですね。結核という難病を乗り越えて、普通の生活ができるようになった。それには病気になったお蔭だということもおっしゃいますけれども、ただ一度そういう難関を乗り越えると、そこから先は順風満帆(じゆんぷうまんぱん)波があっても大丈夫かというと、そうもいかないようですね。
 
山本:  いきませんね。ただいきませんが、壁にぶち当たって、そこからまた教えを受けて、そういうふうに私はなんとか一遍で世界が開けたんじゃなくて、壁にぶち当たる度にしおれてみたり、泣いてみたりしながら、パッとまた目覚めさして頂いたら、こんな明るい世界があったって、そういう私の人生ですね。大転換というようなものでなくて、一つひとつとこう開けていくという。そして今になって、ああ、たくさんの仏様のお働きの中で、泣いてみたり、喚(わめ)いてみたりしながらやってきたんだなという、そういう世界へ出させて頂いて、考えてみたら、やはり若き日の結核、それから善き母との出会い。ですから人生というのは、いろんな出会いの連続ですから、その出会いから何を学ぶかということが非常に大事であろうと。ですから人生学びに生まれてきたというてもいいんじゃないかと思うんですね。
 
金光:  そうしますと、どういう出会いがあるかは、今から見通すわけにはいきませんけれども、どんな出会いがあろうとも、そこからはいろんなことを教わることができるというふうにご体験を伺いながら、それではあんまり心配しなくてもいいなというふうに伺いました。どうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十七年八月十六日に、NHKラジを第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである